1月5日は仕事始めだった。しかしリモート。自宅リモートで仕事始め、しかも金曜日で次の日からは3連休。それはどういうことを意味するかというと、まったく仕事をする気が出ないという意味である。自宅にいながら、仕事って何をするんだっけ、去年まで何をしてたっけ、ということを思い出すだけで一日が終わった。これを書いている今もまだ3連休の真ん中。つまりまだ正月休みの気分が終わっていない。まだまだ遊び足りないのでもっと正月をお願いします。
そうは言っても、ほんとにただ自宅でダラダラ過ごす休日(つまりいつもの土日のような)というのは実は久しぶりで、ずっと何かしらある年始でもあった。
昨日は電車で1時間半ほどのところにある実家に行った。沖縄の土産を渡したり、ピザを取って食べたりなどした。酒はあまり強い方ではないはずなのに、ここ連日ずっとアルコールを摂取している気がする。一回の摂取量は多くはないが。それでも今回はあまり頭が痛くなったりはしなかった(寝る前に飲むようになった養命酒のおかげで酒に強くなった説を推してる)。父親は酒好きでずっとビールや焼酎的なものを飲み、夕方以降に勝手に居眠りを始める、というのがいつものパターンである。
僕は普段はまったくテレビを見ないのだが、実家では常にテレビがついている。その度に、テレビCMやバラエティの画面情報量の多さに圧倒される気分になる。こんな強い視覚的刺激に、多くのお茶の間は慣れきっているのかと思う。テレビが洗脳装置だ云々などとは言いたくないが、少なくとも日本人の美的感覚には多大な影響を与えているのだろう。それはYouTuberの編集やサムネイルなどを見るだけでも分かる。最近SNSでは、震災報道の映像の作り方でBBCの映像が話題になったりしていた。シネマルックな映像への是非。日本的お茶の間映像の浸透と、そこで基準値を作られてしまうことについて、放送局などでも誰も真面目に考えてないのだろうという気持ちになる。
普段、静的なテキストベースのウェブやSNS、あとは音楽だけをメインに摂取していて、映像を見る時は映画などを腰を据えて見るとき、という姿勢で過ごしていると、完全に一方的に、空間に映像が流れ続けている(しかも注意を惹こうとし続けている)という状態に異様さを覚える。文明は多様化したのだ。テレビは画一化された文明の象徴。
テレビ、その画面の情報量のことは置いておくととして、バラエティは内容的にはまぁいいのだが、ニュースになると、実家の空間には若干の緊張感が訪れる。岸田政権の話題になると、口火を切って批判一辺倒な声が親の口から出てくる。別に自分も現政権を擁護したいわけではないのだが、それにしたって妙に口調がキツく、また、その見方の多くが、どうにも親の見ているインターネットのフィルターバブル内で共有されている一種の偏った特有のムードに同調したもののように感じてしまうのだ。政権に批判的なら「左」的か、というと、そういう自覚的な思想的立場がある感じでもなく・・・(岸田政権に関しては「右」な人たちからも叩かれているようだけど…)まぁ、コロナ以降、より問題が各家庭で表面化してきている、アレな影響下にあるセンシティブなアレな問題が絡んでくるわけだ・・・(ブログに書くにはどんどん抽象的な表現に頼らざるを得なくなってきた)
こういうところで、インターネットとテレビ、それを見る人達、見方の問題は、より拗れていく。テレビよりネットを見ればいい、などと簡単には言えなくなってくる。
また、肉親と「真面目な話をする」というのは、恐らく多くの人にとって難しいことだ。真面目な話さえもお互いを尊重しながらオープンに、建設的に会話できる、という関係を家族で築けている家庭は、とても貴重なものだと思う。たとえ仲は良好だとしても、良好っぽさから一歩踏み込んだ緊張感を含んだ、目的性のある会話に対しても、臆することなく出来る家庭というのは、なかなか少ないのではないかと、周りを見てても思う。インターネットの存在が、それを潤滑にしてくれる場合もあれば、より強固な緊張感を加える素材になってしまうこともある。
どうしたらいいのだろう、で立ち止まってしまうところがある。オープンな会話の場を設け、勇気を持って相手の胸の内を開いたところで、鬼が出るか蛇が出るか、より強烈な絶望が待ち構えている恐れもある。
そんなことをうっすら思いながらの帰りの電車、30分以上乗るのでヘッドホンで音楽を聞いていたところ、奥さんから「隣の人たちが攻殻機動隊の話してる」とLINEがきた。思わずヘッドホンを外して聞き耳を立ててしまう。結婚式帰りと思しきグループで、なんとなく初対面同士もいて、共通点を見つけて興奮している感じが伝わってくる会話だった。「ネトフリで見れるエッジランナーズって知ってます?」「プロメアと同じアニメーション会社で…」「アンドロイドは電気羊の〜とかですか?」「三体って読みました?周りがみんな読んでて…」などという興味深いワードがポンポン出てくる。正直会話に混ざりたかった。三体めっちゃすごかったよね!って。というのをこっそり盗み聞きしながら隣でLINEで共有している状況もウケてしまった。
やはり、良質な「作品」が人をつなぎ、作品こそが社会との距離感を冷静に保ってくれるのだなと思う。テレビやインターネットに浸かるだけでは届かない場所に、人々を連れて行ってくれる。サブカルだとか言ってバカにしてる場合ではないのだ。作品というもう一つの世界線(サブ)に避難すること、避難所を複数持つことこそが、世界を複眼的に見ることであり、多様化した文明で最適化した存在として生きていくことなのだ、と、改めて思うのだ・・・
・・・とか、暖かい部屋でくだを巻いている時でさえ、現実の冷たい床の避難所で、今後の生活すら保証されない人々が居ることを、やはり僕らはニュースで知ることしかできなくて。この政府にも、インターネットにも、まだ希望があることを信じたい。温かい環境が、すべての人に行き届く日を願っています。