しずイン日記、ずいぶん書かなくなってるな。むしろ前はよくあんなに書けてたな。新しいネットサービスを始めてみてしばらくは、そのサービスに触れていたいという欲求が駆動する。環境が用意されることでアクションが生まれる。思い返せば自分の人生はそういうことの連続でなんとかやってきたとさえ思う。何かをしたい、生み出したいという欲求が先にあってそこから環境を整えていくというより、こういう事ができる場が出来たらしい、こういう事があのソフトを使うとできるらしい、ということを知ったとき、自分の中で何かのスイッチが入る。それまで特別やりたいと思ってなかったのに、環境が用意されて、そこに手が届く、ならそこで何が出来るのかという想像を働かせたとき、自分の中でうごめく何かに気づく。潜在的に言えば確かに小さな欲求の萌芽があったのだろう、ただそれを自覚して熱意にまで汲み上げるようなことがなかった。目の前に現れた新しい環境に触発されて、アイデアが生まれる。ほんの少しの好奇心と連想。その繋がりでなんとかここまで生きてきた気がする。と、一歩間違えるとなんか自己啓発じみた人生訓を説いてるような感じだが、それで別に大成したとかはなく、結局やっていることは自分の楽しみを満たすような小さなことばかりだ。
そう思うと、Twitterというのはほんとに、140字というゲームチェンジャー的環境を構築してしまったよなと思う。Twitterが出現したことによる、思考の手軽な放出、言葉のストック化ではなくストリーム化と言えるような環境変化は、人の(自分の)思考のルールまで変えてしまったという感じがある。Twitterは会話でもなく文章でもない、が、そのどちらでもあるという性質を実に人間工学的にフィットする形でデザインしてしまったし、それによって140字以上の粘りのある思考が続かなくなったような実感があった。一つの環境が現れて既存の環境が失われ、それによる自分の思考も行動も変容していく、流されていく。
そうやって何かを失っていたということを、再び、このしずかなインターネットというサービスに触れることで思い出す。場によって人は変わる。たとえまた書けなくなっても、そういう場があると心に留めておく。心のなかに新たな場が生まれるということが、一番重要なのだ。現実では、家庭環境も仕事環境ももう長いこと大きな変化はないけれど(そして変わる熱意が出ぬほどに怠惰に幸福であるけれど)、インターネットで毎日好奇心と連想の変化に触れている。すべては心のありよう。インターネットは心の遊び場。自分の砂場を掘り起こす。
というわけで、以下は7月に下書きしてそのまま放置していたものの放出です。
フジロックのあった7/26~28、ご多分に漏れずガッツリ無料配信を楽しんでしまった。なんなら金曜日は会社で。仕事しながら何をやってるんだと怒られそうですが、あの暑い中出社するという大仕事をしたのだからそのくらいは許してほしい。仕事は遅れてしまっても頭を下げたり休日返上で巻き返したりといったカバー方法があるが、ライブ配信は一期一会、その時を逃したら(アーカイブなどを公開してくれない限り)もう体験することはできない。仕事なんて広い目で見たらほとんどの仕事が繰り返しなのだ。そして繰り返すことにこそ仕事の価値がある。対してその瞬間だけに価値がある出来事もある。特に自分を主体として、自分で価値を決められるようなものについては。全く違うものなのだ。違うものが、人としてこの地球上に生きているせいで、無理やり同じ時間軸上に並んでいる。時間軸に縛られ逃れることのできない人間として、選ばなくてはいけないだけだ。
・・・仕事をしながらサボるのは、選んだとは言えないのではないか。確かにそうかもしれない。異質なもの同士を無理やり同時間上に共存させるには、どこかで歪みが生まれるのだ。やるべきことという場の論理からの逸脱。同期せぬ心と体。async。そんな金曜日の配信ではFloating Pointsが最高でした。土曜日の配信ではSamphaが最高。日曜の配信ではYIN YINにもかなりときめいたが、僅差でKIM GORDONが最高でした。でもくるりにもずっと真夜中でいいのに。にもErika de Casierにもみんなキュンでした。
以前ソフトバンクがスポンサーでフジロックYouTube配信をやってくれていた時も、本当に無料配信で3日間大変楽しんでしまってお金払わせてくれという気持ちになったが、今回もAmazonへの感謝の念が湧き上がる。すでにアマプラという有料配信プラットフォームがあるのだから、アーカイブ配信か何かを有料枠でやってくれたら本当に素晴らしいのにと思ってしまう。
フジロック側としては、これを見て来年は現地に来てねという宣伝も込みだとは思うのだが、これだけ楽しんでおきながら申し訳ないがフジロックに出かけるということは恐らくないだろう。。と言ってもフェス自体の楽しさは分かっているつもりだし、野外で音楽を聴くのも気持ちがいい。電車で行って泊まらず帰ってこれる程度の都市型フェスであれば楽しんでいるのだが、いかんせん根が陰キャ組なので、キャンプとかと一体となったフェスとなると途端に自分のものではないような気持ちになってしまう。テントもないし車もない。宿を取って宿泊するスタイルでもいいことはもちろん分かっているのだが…。多分まだ「でかいライブ」を見に行く気持ちになっているからで、おそらくフジロックなどに行く人達は年に一回の「旅行」に行く気持ちに近いのだろうなと思う。そのための移動費や宿泊費も、旅行だから惜しまない。そうか、まず旅行経験が全然ないんだな自分、ということが露わになる。旅行計画とか、自分で立てたことほとんどないかもしれない。学生時代も誰かに連れて行ってもらう状態だった。主体性がなさすぎる。この主体性のなさ、上で書いた環境先行でやっと連想して主体に気づくことと、どこか繋がっている気がしますね。
地震、こわい。
8/8に、宮崎県日向灘を震源とする震度6弱の地震があった。それによって南海トラフ地震臨時情報というものが初めて発信され、南海トラフ巨大地震が一週間以内に0.5%の確率で起こるということが明言された。なので備えを万全にして、一週間は注意をして過ごしてほしい(というかこの一週間もたいした根拠はない、人間は期限のない緊張には耐えられないだけ)らしい。
勘弁してくれ、と思うが、日本人の多くはもうどこか諦めながら受け入れているみたいなところもある。いつか必ず来る、自分も被害に遭う、ということを、もはや呪いのように内面化しながら生きているところがある。元旦の能登半島地震は、日本人にとっての正月に、日本人にとっての地震という、逃れられない非日常の裏表として、いよいよ表面化する呪いの象徴として、一年の計その日に突きつけられたようだった。それでいて能登の復興は今でも遅々として進んでいない。それもまた政治とカネの判断なのか。この上南海トラフまで来るようなことがあったら、どれだけの地域が助けられぬままになるのか。個々での備えはもちろん大切だが、いざとなった時のセーフティーネットへの安心感はどこにあるのか。
いつ来るともしれぬ、不安定な地盤の上で日々をやり過ごしている感覚。明日には全てが失われるかもしれないという前提の上で、そのことを積極的に忘却しながら過ごす日々。この根源的な恐怖、そしてその恐怖の上に歪に成り立っている人々の精神性は、たとえば海外から見た憧れられるニッポンの文化、美味しい食事、治安の良さ、親切な人々、といった美点を、全て覆し無に帰すほどの、日本という悪い場所、悪しき呪いと言えるかもしれない。
自分も3.11以降、何か大きな呪いにかけられて、それが今でも解けないまま、何の前触れもなく座っているときお尻が急にソワソワして背筋が凍って手に汗が出てくるような、家の中のものが大きく揺れて崩れるイメージがフラッシュバックするような、そんな強迫的なパニックの種を植え付けられたような感覚がずっと続いている。
そうして今度の今週末は、台風がたくさんやってくるらしい。僕の年一の楽しみである、僕でも行ける都市型フェス、ソニックマニアの日に。一時音楽に浸って、悪い場所のことを忘れることさえ、今年は許されないというのか・・・