『ドライブ・マイ・カー』、好きな人たちが演奏しているサントラは繰り返し聴いていたのに、映画は、やっとやっと観たのです。
しかし映画や本の感想を、こうして記事として書こうとすることに躊躇がある。どう頑張って書いても感じたことの全てを書き記すことなんて出来ないだろうという苦しさが、書く前から込み上がってくる。ましてやそれが、公開もかなり前で、アカデミー賞まで取って、名作として広く認識されもう語り尽くされたであろう作品ともなると、自分がこれから何かを書いたところで、きっとどこかにある素晴らしい批評には足元にも及ばないし、観る人が特別増えるということもないだろうし、読む人がいたとしても何も新鮮な語り口を与えることは出来ないだろうし。つまり、目的もよくわからなければ、満足することもできない、それなのに語るべき場所は3時間分全シーンにある、なんてものに文章として取り組もうという気力が、湧く方がちょっとおかしいのではないか。と思うのだが…それでも、自分はちょっとおかしい方なので、この映画から与えられたものを、どこかに吐き出しておかないと、日常に戻れないという感覚に支配されてしまった。
それぐらい、素晴らしい映画体験だった。3時間という尺で、その時間以上の大きなものを受け取ってしまった。それは、どこか長編小説を読んだあとと似ていた。まさに村上春樹の小説のような映画だった。もちろん村上春樹の短編が原作だし、『女のいない男たち』はすでに読んでいた。それでもこれは、その短編から着想を得て展開された一編の新たな長編だった。原作短編「ドライブ・マイ・カー」としての物語が長編になったというよりも、この映画はその全体をかけてまるで「村上春樹全般の小説体験」そのものを映像に移し替えてシミュレーションしているような、そういう映画になっていた。
たしかに村上春樹小説の、時折意図不明とも言えるようなワンダーな展開や設定は小説特有のもので、そこまでシュルレアリスムと言える要素はないといえばないし、そういう意味では分かりやすくはなっている。それでも、セックスを通じて別の次元と繋がるような描写や、何かが乗り移ったかのような高槻の台詞とそれに引き込ませようとする磁場が突然現れる感覚など、不意に覗かせる何かのエッセンスはしっかり落とし込まれているし、みさきや家福の人物造形からは、村上小説を読んでいる時に感じられる人物の魅力や空気感からほとんどズレがなかったように思う。まずそれらが映画として再現されていることに驚きだった。
登場人物が全員美しかった。一人ひとりの顔がしっかりと思い出される。その顔を通して視聴者の心に感情を染み込ませるような、それだけの必要な時間が用意されていた。特別な演技はしていない、しているかもしれないが、極力大げさに見せない、些細な口の動き、目の動きのみで語るシーンの多さ。小説を映像に置き換える時の最大の強み。小説家が工夫をこらした文章表現に対して、映画では役者と監督の共同、共犯的作業によって別の視点へと置き換えられていく。
演技を抑制する、言葉を選びながら口数少なく、それでいて言葉にならぬものを伝えていく。それは、劇中の「稽古」の中でも、役者に対してなるべく感情を入れずただ台本の「本読み」を続けさせることで、テキストを体に入れ込んでいくということを強いること(それでいて家福自身はその引力に自身をさらけ出すことから逃げている)と重なっている。劇中の舞台劇はそのままこの映画のメタファー、というか写し鏡そのものとして機能していく。『ワーニャ伯父さん』の中での台詞が、別のシーンの過去と未来とに連関して、オーバーラップする。多言語演劇や手話という手法の導入による、「伝わらなさ」、不器用さと「それでも伝わる」ものがあるという方法の多様さの提示。物語はリニアに進んでいるのに、不思議とパラレルな並行世界を行きつ戻りつしながら進んでいるような感覚を覚える。ある意味くどいほどに、それが全て計算づくであることが分かる。
もしこの映画の弱点を言うとしたら、それがハッキリ見えてしまうところかもしれない。全ての台詞と時間が必然を持って、とても理知的に配置されているので、こんなにも無駄なく映画が構成できるのかと感心してしまうが、ともすればそれが窮屈なグリッド感さえ感じさせてしまうかもしれない。広島や瀬戸内の風景もとにかく切り取り方が美しく、一時停止したいほどの衝動に何度も駆られた。しかしだからこそ、その構図からも確かなように、完璧過ぎた、という印象が少し後を引くところがあるかもしれない。(もしかしたらあの謎と言えるラストシーンは、そのグリッドの緊張感から抜け出した自由さを、この映画にも必要だという意図から、みさきの自由さと重ね合わせて配置された"余白"なのかもしれない)
まただからといって、観ている時にそんな窮屈さを感じるわけではない。車に乗り動き始めた時に、スッとリラックスする家福の気持ちとともに、石橋英子の音楽が滑らかに入ってくる。移動が始まり、新たなフェーズに入るとともに、風景と音楽による無の時間が始まる。パラレルに進んでいたものが、同じ車の中で相乗りをする。動き出しながら、時間が止まる。
その車上でのリラックスと集中があるからこそ、「無音」を選んだ瞬間が効いてくる。語り得ぬもの、そこにあるべきものの途方もなさ。映画は無音が一番恐ろしい。映像の細部と視聴者の内面が緩衝材なしに急に向き合うことを強いるような圧迫感がある。
この映画は物語でありながら、そうやって何かと向き合うことを強いるような面がある。自分は何から目を背けているのか。別に人を殺してはいない、はずだ。家福だってみさきだって殺したとは言えない。それでも、自分の中の放置していたどこかから、人に傷つけられ、人を傷つけた記憶を引っ張り出してきて、それに対してしばらく自問を繰り返してしまいそうな、そういう危うさがある。危うさがあるが、それでもそれを抱えながら生きていくのだという肯定に、最終的には行き着く、行き着かなければいけない。劇中劇のラスト、手話と無音、家福を取り囲む感情、それを真正面から見据えるみさき、それをただ見つめ返すことしか出来ない我々。映画の持つ、視聴者の心の動きまでも差し出すことを含めた全体としての運動の力を思い知るシーンだった。
そうして、ようやくあたしたち、ほっと一息つくの
心の一作になりました。『悪は存在しない』も楽しみですね。