有限と無限と

hajimism
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有限化する

最近ばあちゃんが危篤を迎えた。母から「この土日が山場らしい」と聞かされ、急いで喪服を仕立て、東京の一人暮らしの家から北陸の実家に戻った。

幸いばあちゃんは一命を取り留め、なんとか年が越せそうでひとまずは胸を撫で下ろした。

ただ、そのこととは別に、実家に向かう夜行バスの中でふと気がついたことがあった。

きっと今ばあちゃんは「ああ、あとの人生は孫に会えればそれで十分や、家族で集まれればそれで十分や」と考えている。一方でぼくは、ばあちゃんを心配する気持ちの裏側で「来週までにこれを終わらせたいな、だから今日中にここまではやりたいな。あーでも、本も読みたいしな。」などといったことをせわしなく考えている。葬式がある場合のスケジュール管理をしきりに思案している。余計なことを悩んでいる。

この、「軽さ」の違い。「〇〇できればあとは死んでもいい」という軽快さと、「あしたのためにあれもこれもやらなくちゃ」と背負い込んでいる重さの圧倒的な違い。「死にかけたほうがいい」とかそういう事を考えているわけではないが、その軽さになにか本質的なものを感じ取り、痛烈に自分を反省した。どうして自分はこんなにも重苦しく生きているのか。すっかり骨と皮になってしまったばあちゃんと違ってシワひとつない顔をしているくせに、この淀みはなんなのか。

たとえば、「今日のランチは何にしようか」と考えているとする。好み、体の調子、金額、ありつけるまでの手間などを総合的に考えて、最も多くの「幸せポイント」を獲得できるように選択する。場合によっては有名中華の麻婆豆腐がそれかもしれないし、カップラーメンが当てはまることもあるだろう。

時間軸を伸ばしてみる。「今日のランチは何にしようか」を考えているときに、「今日の夜はデートがあるんだったな」と思い出す。「じゃあ、にんにくがきつい料理はやめておこうか」となる。今日のランチの今この瞬間の幸せポイントを最大化するのは麻婆豆腐だったのに、今日のランチと今夜のデートの「総合幸せポイント」を考慮した結果、ランチはうどんになる。

時間軸をさらに伸ばしてみる。来週は旅行だから貯金しておきたいな。来月あそこのお店が閉店するらしいから行っておきたいな。次の夏は水着を着たいし太りたくないな。総合幸せポイントを支える要素はどんどん増えていき、考えることが無限に連なっていく。

そう、この無限性。ふつう人は、明日死ぬと思って生きてない。それどころか、命がおよそ無限に続くことを仮定して生きている。将来のために勉強するし、将来のために働いている。その方が総合幸せポイントが高くなると思っているから。

明日死ぬと思えば、今日のランチは麻婆豆腐になる。だって、今それが食べたいから。それは、ばあちゃんが「孫に会えれば死んでいい」と思っているのと同じことだ(正確には孫のぼくが勝手に仮定しているのだが)。

「麻婆豆腐」という選択が本当にベストなのかはわからない。その善し悪しは問題ではない。「だって、今それが食べたいからそれを食べる」という決断の軽やかさ。そこに不思議と善を感じる。屈託の無さ、素直さ、悪意の無さを感じる。

だから、有限化する。「あとのことを考えると...」と余計なことを考えるのをやめる。「将来のために今これをやるべき」と打算するのをやめる。「これを言ったら面倒が起こるかも」と勘繰るのをやめる。考えることを減らして、もっと純粋な善に向かって行動する。

「今この瞬間」という極限の有限化は難しいから、「今月」とか「今週」とか「今日明日」くらいの有限化から始めてみる。安い自己啓発みたいだけれど、今の自分にはそれが必要な気がしている。

しかし、無限である

一方で、有限化するとあまりに多くのことを見落とすことに気がつく。

昔、担任の先生がこんなことを言っていた。「教師から見て意外な組み合わせだなあと思うやつらが、案外仲良かったりするんだよなあ。」

問題は2つある。1つは、先生から見た生徒の姿があまりにも限られていること。もう1つは、仮に先生が生徒のことを完全に理解していても、生徒同士の関係性のことは全く持って予測がつかないこと。

生徒それぞれのことを完全に理解していたとしても、その生徒らの間でどういう関係性が生まれるのかはわからない。XさんとYくんが、教室の端と端にいる関係になるのかマブダチの関係になるのかは、XさんとYくんの「単体の情報」だけではわからない。いがみ合うかもしれないし愛し合うかもしれない。それはXやY自身にもわからない。2人の関係性は2人のどちらの側からも制御することができない。XとYの関係性はXともYとも質的に異なる。

ぼくはキャベツの味も豚肉の味も小麦の味もソースの味もマヨネーズの味も鰹節の味もあおさの味も完全に把握しているつもりだが、それらが合わさったお好み焼きの味はそれぞれの材料から想像するものを優に超えてくる。もはやお好み焼きはそれぞれの材料とは質的に異なる。食材の集合はそれぞれの食材と異なる次元にある。

この、無限に広がる複雑性に対して有限化を試みても、その複雑性を理解できるようにはならない。材料の味をすべて知っていてもお好み焼きの味を知ったことにはならない。複雑なものは複雑なまま理解するしかない。

たった2人の関係性についてすら驚くほど複雑に思えるのに、それより遥かに多くの要素が詰まった社会の複雑さったらない。有限化を前提とするものの見方では到底理解できない。

自分は社会を、世界を少しでも理解したいと思っている。それが善いか悪いかはさておき、そういう欲求がある。無限の複雑性に向き合いたい。

でも、同時に軽やかでありたいとも思っている。もっと有限な存在でありたい。

じゃあ、どうしよう、となっている。わからない。有限と無限の二項対立に脱構築を起こさないといけない。本当は最初から対立していないのかもしれない。わからない。なにかいい考えがあったら教えてください。