今日はAnime Japanの『ワンルーム、日当たり普通、天使つき』のステージに大西沙織さんがサプライズで登壇した。
活動を一部制限してからは、アイカツのライブ(23/02/19)以来約1年ぶりのステージ。
こうしてアフレコ以外の仕事、とりわけ人前に出る活動ができるほどまでに、体調が回復しつつあるということに少し安堵した。そして笑顔が見れたことが嬉しかった。
その一方で、今回ステージに出れたからといって、これからもステージに出てほしいとか、ラジオや番宣にも出てほしいとか、気軽に思うこともできなくて。
当然それらの活動には特殊なストレスがかかるし、それ以上に、私(たち)の彼女へ向ける期待や視線が彼女を圧迫していないか、と常に不安になる。
我々観客はメディアを通してしか知ることはできないが、それ故にまなざす対象をキャラクター化して捉えてしまいがちになる。今日も「変わらないな」とか「さすが大西さん」とかのコメントがあり、彼女の人前での振る舞いがまるで実像であるかのように扱われる危うさを感じた(決してそれが虚像であると言いたいわけではない)。緩い雰囲気だったキャン丁目ですら、「ギアを上げなきゃいけない」という発言をしていたことを鑑みても、常に素と演技が多層的に重なりあっている。
デイヴィッド・ライアンは「監視文化(The Culture of Surveillance)」という言葉を使っているが、表の活動からSNS等での私的な領域に至るまでの様々な情報を観察しつなぎ合わせることで、そうした像を作り上げ、さらにそこに理想や欲望を投影しかねない。加えて、そこには体調不良からの復帰がストーリー化される危険性もはらんでいる。具体的な話自体は避けられているというのに。
そもそも、この日記すらもこうした監視に加担しているかもしれない。
ただ、結局のところ、私が心がけるべき身振りというのは、「推す」とか「応援する」とかではなくて、ただ「好きである」こと、彼女からの発信を「受け取る」ことだけであり、それ以上に何かを欲したり、想像したりしないようにすることである。
このあたりの葛藤は以前も書いたのだが(https://dieariki.blogspot.com/2023/08/blog-post.html)、今日再考してみても何も進展していなくてもどかしい。