漸くヴィム・ヴェンダース監督の『PERFECT DAYS』を観てきた。
トイレ清掃員の平山という男の淡々とした生活を追った、ドキュメンタリーのようなフィクション映画。
映像はどこを切り取っても美しく、平山を演じた役所広司を始めとして役者陣の仕事も素晴らしかった。ドキュメンタリーのような、というのはまさに、存在しないフィクションの人物が確かにここにいるように感じさせられるからである。
平山のルーティン化された生活(反復)と、そこに常に生じる差異というものを「木漏れ日」というモチーフで丁寧に描いていく。
中でも印象的だったセリフはこれ。
平山「この世界には、たくさんの世界がある。つながっているように見えても、つながっていない世界がある」
私の大好きなアニメの一つであるフリップ・フラッパーズでのセリフがすぐに想起された。
ソルト「ピュアイリュージョンも全て世界はなめらかに存在している。(中略)しかし、実際にはそうではない。摩擦のないユートピアなど存在しない。摩擦は世界の真理だ」
平山のセリフには階級格差的な意味合いも含まれているが、フリフラでのセリフの意味も認められるだろう。つまり、ユクスキュルの「環世界 (Umwelt)」の概念、人間含む動物それぞれの諸主体におけるそれぞれの世界の見え方。それぞれの世界に孤独に生きる運命にありながら、時に交わり、時に離れていく。平山が極端に俗世から乖離していることが、世界の摩擦を際立たせる。
我々観客は平山の生活を見ているが、平山から世界がどう見えているかは想像するほかない。そしてその想像から我々が何を感じるのか(羨む、憐れむなどなど)もそれぞれである。そして想像することによってのみ、他を思いやることができる。
ただ、生き急ぐ人々や社会、変化への小さな(虚しい)抵抗も感じられたので、この作品がThe Tokyo Toilet(TTT)というプロジェクトのPRが企画の発端だったと知って何ともいい難い感情になった。(TTTは渋谷区の公共トイレを建築家やクリエイターによって「誰もが使ってみたくなる公共トイレ」を目指してリデザインしたものらしい。)
新しいトイレはユニバーサルデザインを標榜してはいるものの、例えばガラス張りの個室が鍵を閉めると中が見えなくなるトイレは、そのシステムに不具合が生じたケースもあるし、劇中でも外国人が使い方を聞いてくるシーンまであるように、手放しに評価できるものでもない。むしろ、繰り返される都市再開発は見た目上は綺麗で、実際は利便性が高まることがなかったり、良かったものやそこにあったものを排除する傾向も強い。
この映画は公共トイレ清掃員が主人公でその仕事の様子も丁寧に描かれる一方で、汚物は一つとして出てこないのだが、その理由も嫌な仕方で浮かんでくる。平山に対して大人が寄せる清掃員に対する偏見が露悪的に映されることで、逆に我々観客は平山の真摯な仕事ぶりに、そしてその仕事の上にある彼の生活に対して好意的になる。映画の比重は、一人の人間の世界での生活から、結局は都市における労働讃歌へと傾いているように感じられてしまった。
Twitterで検索してみたら、案の定(?)プロパガンダとまで評するものがあったが、映画自体は大変好きなものだったので、そこまでとは言わないものの、かなりアイロニカルだなとは思う。TTT発案者であるファーストリテイリングの社長・柳井康治の、パンフレットに掲載されているコメントを読む限りは、この映画を映画というよりもやはりPRとしてしか観ていなそうということも含めて。