『人類の会話のための哲学』プレゼント企画に付随して、『Author meeting 朱喜哲 「バザールとクラブと日本のまち」』というオンラインイベントにも招待してもらったので参加した。
そもそもまだ当該書籍もローティも読めていなくて、開始時間に出遅れたし、夕飯で抜けたりしてあまりキャッチアップできなかったのだが。アーカイブないらしくて残念。
とりあえず、100分de名著で抱いていた疑問点を投げた。
朱喜哲氏による回答は以下の通り。
これは提起されているように、「われわれ」とはそのようにしか言われえない、共感によって結びつきうる(自分をそこに代入できるような)存在者ですね。その存在者に何か残酷さが及ぼされていたならば「わがことのように耐えがたい」か、いうのが判定基準になるでしょう。
それゆえ、これはおっしゃる通り排除の原理と一体でもありますが、しかし、それに代わる手立てはない…という類のものかと思います。本質主義をとらないので、「人間/動物」「生物/無生物」の線引きも固定的ではありません。
(とはいえ、感情教育が働きやすい偶然的な要素として、「似ている」とか「反応がある」といったものはあるでしょう)
恣意的な「われわれ」(たとえば民族や人種)の画定という本質主義を排した上で、なお「われわれ」を拡張するために提起されるローティの「感情教育」とは、「物語や会話を通じて共感可能な対象を広げていく[...]他者への共感、とりわけ他者の痛みを我がことのように感じ、それゆえ他者への残酷さを回避すべき感情的な紐帯を育む」(朱喜哲『人類の会話のための哲学』p. 235)こと。
(このように質問に関することは、ちらっと見たら本書にも少し記述があって申し訳ない気持ち。)
また、ローティの言う「連帯」とは次の通り。
連帯とは、伝統的な差異(種族、宗教、人種、習慣、その他の違い)を、苦痛や辱めという点での類似性と比較するならばさほど重要ではないとしだいに考えてゆく能力、私達とはかなり違った人びとを「われわれ」の範囲のなかに包含されるものと考えてゆく能力である。(リチャード・ローティ『偶然性・アイロニー・連帯』p.401)
この「共感」、「われわれ」という問題はそれぞれ、文字通りの"common sense"に、「共同体」にかかずらう。その意味でジャン=リュック・ナンシーの思想から考えたいのだが、なんともまとまらない。というより、圧倒的に読書量が足りない。
イベントにおいて、「当事者が安心できることを意図した場所作りは、結局当事者自身よりもその思想的賛同者によって支持されがちになり、本来の意義を失う」という旨の発言があり、それに対して、「本質/目的主義を避け続けることで常に異なる在り方をするべきではないか」というような朱氏の応答があった。
このあたりはまさにナンシーが『無為の共同体』で述べたような、「社会的・経済的・技術的・制度的な営みの解体としての無為」と共鳴する。
ただ、理論的なものの無責任さと言われていた一方で、感情教育も共同体も実践的なのかと問われるとよくわからない。ジェノサイドのような苦痛の極にすら対応していないじゃないかという。いわんやより個人的な苦痛や葛藤をや。