今日は美容院に行って、その足で渋谷のユーロスペースに行き『すべての夜を思いだす』を観た。
多摩ニュータウンの団地のある一日を、三人の女性から追う群像劇。彼女らに直接的な繋がりややり取りはないし、この一日に何か大きな出来事が起きるわけでもない。しかし、映し出される空間、写真・ビデオ、物を通して、存在した/する/し得た/し得る記憶が呼び起こされる。
正直冗長なシーンが続く感は否めないが、テーマはおもしろかった。何より、引き続き読んでいるナンシーの"The Sense of the World"とかなり重なり合っていたので、意識せずにはいられなかった。
以下は、”Space: Confines”と題された章からの引用。
We are at the confines of the multi-directional, plurilocal, reticulated, spacious space in which we take place. [...] we touch our limits on all sides, our gaze touches its limits on all sides. That is, ― indistinctly, and undecidably ― the finitude of the universe thereby exposed and the infinite intangibility of the external border of the limit. It is henceforce a matter of the "vision" of the limit, that is, vision "at" the limit. (Jean-Luc Nancy "The Sense of the World" [tran. Jeffrey S. Librett] p.40)
三人の女性の交流は起きないが、画面上ではすれ違う(交差する)。それぞれは会話、通行人、写真・ビデオ、土偶、空き家などに触れて (touch) 、眼差して (gaze) 、あらゆる記憶を喚起する。
記憶というのは不思議なもので、自分が覚えていると思っていたことが他人と食い違ったり、突然何かの拍子に思い出されたり、実際には経験したことがないのに体験したことがあるように感じるデジャヴュを体験することすらある。これらは常に何かの契機にさらされた (exposed) 限界 (limits) であり、それに触れることでその境界=領域 (confines) を超え出る。これは超越や逸脱ではなく、限界への (to) 移行 (passage) を意味する。
A thought of the limit [...] will have to be articulated not in terms of schemes of transcendence or transgression, but in terms of beyond-schemes of the passage to the limit, in which the "to" combines the values of "on the edge of," "beyond," "across," and "along," the values of touching and detachment, of penetration and escape, transitive and intransitive at once. (Ibid.)
外と内を隔てる限界、境界に触れることは、すなわち外=他と内=自己に触れることである。この自己と他者との同時的な触発が、過去の、現在の、未来の、さらには並行世界の記憶を喚起する。
Whereas the world was reputed to have its sense either outside or only inside itself, it has or is this sense henceforce on its confines and as a network of confines. (Ibid.)
そしてこの記憶の連なり (network) こそが世界であり、彼女らの触れた世界なのである。曖昧な記憶の世界であっても、自己と他者に開かれているという意味で、彼女らは確かに実存している。
ところで、最近はナンシーと今回の映画の重なりや、ベボベの新譜と『aftersun』との重なりなど、奇妙な体験をすることが多い。
これ自体も「触覚(a sense of touch)」の話とつながるし、デリダのナンシー論である『触覚、 ジャン=リュック・ナンシーに触れる』を読みたい。