STOP MAKING SENSE

hal9777
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『STOP MAKING SENSE 4Kレストア』を観た。ジョナサン・デミ監督によるTalking Headsの1983年のコンサートフィルムで、史上最高との呼び声も高い。当時にしては珍しくデジタル録音をしていたらしく、IMAXに耐えうるようにリマスタリングも施しており、映像・サウンドともに臨場感が凄まじくとても良かった。

この映画の存在自体は知っていたが観る機会もなければ、そもそもTalking Heads自体通ってこなかった(高校生の時に聴いた"Remain in Light"は全く理解できなかった)。ただ、最近のベボベがポスト・パンク/ニューウェーブを参照していたこともあって、そのあたりを聴いて割と好きになっていたので良いタイミングだった。

また、ファンクやアフロビート、R&Bなどなどジャンルも国境も多彩な現代UKジャズシーンを追っているので、ポスト・パンクにアフロビートやPファンクを取り入れて進化してきたTalking Headsに今の私がハマるのも全くおかしくない。

そして肝心の内容だが、ライブ映像だろうとたかをくくっていた私を打ちのめす映画作品だった。これまで参加ないし観たライブでもテーマがあって作品として作られたものはあったが、それらとは一線を画しており文字通りのショーだった。設営されておらず機材すら置いていないステージに、一本の光に導かれるようにデヴィッド・バーンがアコギとラジカセを持って登場。"Psycho Killer"から始まり一曲ずつメンバーが登場し、ベース、ドラム、ギター、パーカッション、キーボード、コーラスとそれぞれが音を持ち寄り、7曲目の"Burning Down the House"でようやく計9人が揃う。メンバーそれぞれが音楽を作り上げるのと同様に、スタッフが曲中に黒子としてそれぞれのセットを運び込んでステージも作られていく。ほとんど客席を映さずバンドの動きや表情を繊細に追うカメラ、ライトは一色で濃い陰影やストロボ、スタンドライトなどを駆使するライティングも美しい。

普通のライブとは思えないあまりにも映画的なパフォーマンス。それもデヴィッド・バーンとの軋轢からその後ほとんどライブをせず活動休止となるような晩年期のライブというのだから驚き(しかも結成から約8年!)。この先を知っているからこそ歌詞が様々な意味(Sense)に取れるのもエモーショナル。

タイトルの『STOP MAKING SENSE』は、ライブ終盤の”Girlfriend Is Better”に出てくる歌詞である。これはいかようにも解釈できるだろうし、いつ誰が観たのかによっても様々だろう。デヴィッド・バーンのぎこちないダンスの無意味さ、歌詞や曲、パフォーマンスから意味を読もうとすることの拒絶、人生の意味を求めることの否定、記号(意味)的消費の拒否、そもそもこのタイトルの意味を考えることの拒否etc. 

ナンシーに倣って読むなら、意味=方向(sens)の解体とでも言えるだろう。つまり、一つの意味として完成されたものではなく、常に他なるものに、限界に、別の方向に開かれてあること。バンド(この作品に関わったスタッフや観客まで含めることもできるだろう)は解散しそれぞれ別の道に分かれるが、この作品という場にそれぞれの特異性が露呈されていることで実存し、同時にこの作品を一つの完成に導くのではなく、解体する(中断、断片化、宙吊り)こと。STOP MAKING SENSE. 「世界の開けとしての意味の遺棄」。

”Psycho Killer”が頭から離れない。

@hal9777
「誰でもよい、だがほかならぬあなたとともに生きるための言葉を投げつづけなければならない。」伊藤潤一郎『「誰でもよいあなた」へ ― 投壜通信』(p.146)