日記に書くことはあるもののその気力がなくてだらだらと書いていたら2日も遅れてしまった。
2024/5/7(火)。わけあって東京駅でお茶をしてその後週末のイベントに向け(?)髪を切った。髪型を変えたいけれど、ド直毛なせいで前髪作ってもすぐ邪魔になるしショートにはできないしで、あとはロングにするくらいしか道がないのだが伸ばすのは面倒。
そして、なんとなしに応募したら当選した『ボブ・マーリー: ONE LOVE』の試写会を観に日比谷のTOHOシネマズへ。初めてTOHOシネマズプレミアムシアターなるものを体験したのだが、画面はでかいし音も綺麗でなかなか良かった。それも2列目の端という普通なら選ばない席でそれだったので、プレミアムシートの方はもっと良さそう。
肝心の映画の内容だが、レゲエはボブ・マーリーとジミー・クリフの名盤を聴いたことあるくらいの知識だったがまあまあ良かった。曲というよりもラスタファリ(ラスタマン)への敬意に溢れた映画だったので、そのあたりの知識があったほうがより楽しめると思う。あと中村達の『私が諸島である カリブ海思想入門』を読んでおけばよかったとも。西洋中心主義への抵抗でもあったので。
一応公開前なので以下ネタバレと前置き。
タイトルにあるように、人種、宗教にかかわらず一つになれること、ONE LOVEを歌うボブ・マーリーの話。物語は内戦に陥りそうなジャマイカにおいて平和のためのフリーコンサート"Smile Jamaica Concert"から、ロンドンへの亡命、名盤"Exodus"製作・欧州ツアー、そしてジャマイカでの帰国ライブ"One Love Peace Concert"までを描いている。
ボブ・マーリー自身がそうであるにしても、ラスタマンをかなり尊重しており、事あるごとに聖書や集会(ナイヤビンギ)、終いには彼自身がジャー(神)の息子、メシアであるように描く。そしてエンドロールの最後には"Rasta Man Chant"が流れる。
本名はRobert Nesta Marleyで、Nestaというのはメッセージを意味するらしい。彼にとって曲や歌詞、ライブのセットリストもジャーの思し召し=メッセージであり、「霧のように流れてくる」ものと捉えている。そして完成した"Exodus"(栄光への脱出)は「啓示の曲」であり、ラスタマンは「創造の道を行進」する。Exodusツアーは文字通りのExodus、つまり"Movement of Jah people"となって、西洋の歴史に存在してこなかったカリブの、ジャマイカの言葉を伝える。そして神の使者(Messenger)としてのボブは「お告げそのものとなる」。
マーケティングやライブにおいても、若くしてガンに侵されて手術が必要になっても、西洋的なやり方には屈しない。むしろボブとその仲間たちにあしらわれる西洋人は滑稽ですらある。ロンドンに亡命していた時期はちょうどパンクの全盛期で、The Clashのライブをボブ・マーリーが観るシーン(White Riotが演奏されている)があり、政府や権力者に抵抗する点では似ているようだが、根底で「彼らは君主制に反対しているだけだ」と一蹴していて面白かった。
他方で、白人社会(セレブリティの集まるパーティや欧米を中心とした活動、野蛮な黒人という偏見など)へと巻き込まれていくことから完全に逃れることもできず、それを音楽のためという大義名分によって内面化してしまう。そうした抑圧から妻や仲間と対立してしまう。差別に反対しながらもラスタファリでない黒人を小馬鹿にしたり、One Loveといいつつ不倫をしたり、非暴力を歌いながらも仲間を殺めかねないほど殴ったり、自己矛盾も多く見える。
中村達の『私が諸島である カリブ海思想入門』が副読本になるというのは、ボブ・マーリーが西洋中心主義への抵抗としての創造の道を開拓したからである(しかしそれすらも西洋側から「第三世界」と形容されてしまうのだが)。そしてエドゥアール・グリッサンの「過去の予言的ヴィジョン(the prophetic vision of the past")」とデレック・ウォルコットの「アダム的ヴィジョン」という2つの概念が、この映画の持つ意味を浮かび上がらせる(こちらは次のコラムが参考になる)。
非西洋とは西洋によって発見された他者であり、カリブ海においては文書や記念碑がなく口承も失ったいわば西洋の歴史の外の記憶を持たない。カリブ海作家たちは「創造的アプローチ」による円環的な歴史認識をもってして、「直線的な時間概念を拒否し、過去の記憶を想像で描くことによって歴史を創作」、そして記憶を錯乱させる。
「過去は単に歴史家によって客観的に(いや主観的にさえ)再構成されるべきではありません。過去は、みずからの過去をまさに覆い隠されてきた人びとや共同体や文化のために、予言的に夢想されるべきなのです」
エドゥアール・グリッサン『多様なるものの詩学序説』小野正嗣訳(東京:以文社、2007年)、122。
「事実は神話へと蒸発する。これは、太陽の下に何も新しいものを見ることがない色褪せたシニシズムなどではなく、すべてを新しく生まれ変わったものとして見る高揚感なのだ」
Derek Walcott, What the Twilight Says: Essays (New York: Farrar, Straus and Giroux, 1998), 38. (中村達訳)
まさにボブ・マーリーの偉業は神話へと蒸発し、それが今映画となって生まれ変わった。こうした伝記的映画にはつきものとも言えるが、史実とは若干異なる部分があるとしたら、それは歴史を再解釈した結果だろう。
この映画には帰国ライブ後の政治・社会的情勢、つまりONE LOVEが達成されたのかどうかは文章で説明されるだけでほとんど描かれない。言い換えれば、この"One Love Peace Concert"から直接的に、我々観客が生きる現在へと接続されている。ともすれば「分断が進む現代だからこそ重要な映画」という陳腐な感想になりかねないが、一歩進んで「創造的アプローチ」を通して観る必要があるように思われる。ボブ・マーリーやこの映画での出来事をクロノロジカルな歴史の一部分とせずに、「アダム的ヴィジョン」を通して語り直されたものとして受け取ること。偉大なボブ・マーリーとその影に隠れてしまった人びと(バンドメンバーや関係者から聴衆まで)の記憶を「予言的に夢想」すること。そしてこの円環的な歴史を未来へと開いておくこと。まるで「創造の道を行進」するように、再びExodus(栄光への脱出)へと向かって。