2025年3月30日(日)

hal9777
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公開:2025/3/31

昨日、髙橋ミナミさんが5年間続けられたエジソンでの最後の放送を迎えた。エジソンでの彼女は、毎週とてもハッピーに努めていて、ゲストに対しては入念に準備してきたことが伺える感想を述べていて、彼女のことがより好きになった。その感想も、ゲストさえ気づいていなかったかもしれない良いところを見つけるのが上手でととも素敵。とは言っても、箱番組が苦手だったり、ゲストに興味がなかったりで、聞いていたのは正直多くはないので、その努力に対して申し訳なさが立つ。それでも直近のまほプリ特集は作品のトークにおいてもリスナーへの投げかけにおいても、ラジオとしてとても良い回で、作品を観るきっかけにもなった。毎週2時間生放送というのは相当大変だっただろうから、今後はプライベートな時間が取れることを願う。代わりにイベントが入るようになるのかもしれないけれど。


今日はそんなラジオにまつわるイベントの「大村綾人のラジオ業界オモテ話」に参加。制作の裏話ではなく、業界の見えてる側面について深堀って考える会。消費者側からの視点がなかったのが少し惜しいが、放送局が何をしてきた、いやむしろしてこなかったのかというところの片鱗を見た。何者かよく分からない人、知らない話題、知らない曲に出会えるのが良いところだと盛り上がっていた反面、私はそんなこともなく、聞いているラジオはどれも人ありきがほとんど。よく知らない人のポッドキャストも少し聞いてるが、ジャンルへの興味があってのことで、ラジオをかけっぱなしにするという習慣がない。

訳知り顔で話すようになってしまうが、盛り上がっているコンテンツの条件とは、どれだけ文脈に乗っかれるかどうかではないだろうか。別に何も新しいことではなく、例えば60s、70sの洋楽には社会的、政治的な文脈が大いにあったし、ラジオでいえばその内輪ノリを共有できるかどうか。イベントでも話題に上がっていたが、テレビは一方的に制作側のおもしろを伝えるのに対し、ラジオはパーソナリティとリスナーの共時的な相互関係がある。パーソナリティ含む制作側に傾いた非対称性はあるが、両者の相互関係の中で共有された同一の時間の中で生じる差異が面白さを感じさせる。両者の間に盛り上がりの熱を生むエコノミーがあるのだから、パーソナリティはリスナーのことを拾う必要があるし、リスナーはメールを送る必要があるということになる。出資者はツイッターのハッシュタグ投稿数をかなり気にしているようだが、注意する方向性を間違いかねない気もする。

ミラッキさんは超A&G+について「ラジオになりきれなかった」と評していた。メールをほぼ読まなかったり当たり障りのないメールを読む声優ラジオを何度も聞いた気がする。それはエコノミーの循環を滞らせていたのではないだろうか。循環がなければ文脈も生まれない。メールを読まない「としたい」が人気だったのは、むしろテレビ的だったからかもしれない(実際音泉の音声のみでは聞けたものではなかった)。また、最近始まった「余生ですよ」が私になかなかハマらないのはラジオなのにメールを読まないせいかもしれないし、逆にハマっていた「キャン丁目」は毎度少なからず読んでいて、そこから生まれたノリも多くあったからかもしれない。

ビジネスとしての損益に関しては窺い知るところではないが、ミラッキさんのような熱い制作者に引き続き面白いラジオを提供していただきたいし、こちらももう少し積極的に参加していきたい。

今回現地参加したことでフォロワーさんやさらにそのフォロワーさんと出会えて、楽しい会話だけでなく考えるきっかけができたので、行って良かった。

@hal9777
「誰でもよい、だがほかならぬあなたとともに生きるための言葉を投げつづけなければならない。」伊藤潤一郎『「誰でもよいあなた」へ ― 投壜通信』(p.146)