NTT都市開発デザイン戦略室のデジタルZINE「ちいさなまちのつくりかた」にて、歌人の伊藤紺さんが述べていた言葉や歌との向き合い方が良かった。(街づくりというビジネスそのものへの批判は措いておくとして。)
伊藤紺「普通の言葉には収まらない感情やイメージのなかにこそ、まだ共有されていない『真実』があって。それが歌の“背骨”になるんです。背骨がある歌は生きてる[...]。」
広告やキャッチコピーとは違い、短歌は特定の目的を持つ言葉ではなく、彼女はあくまで個人的な感情の内奥を探り表現する。それは誰かにとっては些細なことかもしれないが、自分にとっては切実な感情。その意味で言えば、彼女の歌は共感という言葉で宣伝されがちであるが、そんな簡単に共感が入り込む余地は限りなく小さいはずなのだ。それでも惹かれるものがあるというのは、受け手において異なる個人的な感情が湧き上がっているということを示しているのだろう。
ここで想起されたのが、ジャン=リュック・ナンシーなどの研究・翻訳をしている伊藤潤一郎著の『「誰でもよいあなたへ」投壜通信』の第九章「あてこまない言葉」。「あてこむ」とは良い結果を期待することであり、たとえばツイッターでいいねという感情的承認をもらおうとする文章がまさに「あてこんだ言葉」ということになる。
「あてこまない言葉」が期待しているのは、意味の変容という、言葉の意味が話し手からも受け手からも解放される瞬間である。発話者がひとつの意味を専有することなく、受け手における解釈や意味の揺らぎを積極的に待ち望み、かといってひとつの解釈だけが確固とした不動の地位に就くのも否定する。[...]「あてこまない言葉」において、意味は誰のものでもなく、主体による所有から自由になっている。
伊藤紺が「背骨」と呼ぶものは「あてこまない言葉」に近いものなのだろう。そのような「背骨」を大事にして歌を詠む姿勢があったからこそ彼女の短歌が好きなのかもしれない。
と言っても、別に短歌を詠む習慣があるわけでも、なんなら文学を読む習慣も今はない。本や文章こそ好きで読むが、大学に入って以降はアカデミックなものがほとんど。最近になってようやくもっと詩歌、小説を読みたいという気持ちになってきているので良い作家に出会いたい。そしてそれが私自身の感情の奥底を知る助けになればと思う。この日記もその作業の一つにしていきたい。