ナンシーの"The Sense of the World"と『限りある思考』を併読しているが、なかなか理解が追いつかなくもどかしさが募るばかり。話がどこに着地するのかが読めなさ過ぎる。あと『限りある思考』がこんなにも"Le Sens du monde"と補完的な関係にあるなら、入門系の本で紹介しておいてほしかった。
気晴らしにでもと、長く積んだままだったボードリヤールの『消費社会の神話と構造』とヴェブレンの『有閑階級の理論』を読み始めた。特にボードリヤールのは1970年の本だが全然色褪せてない。この本に感化されて無印良品ができたという話があるが、結局消費社会の象徴としての記号になっていて皮肉。
消費と生が切り離せないのだから当然と言えばそれまでなのだが、ナンシーの実存の思考の射程がかなり広い。例えばボードリヤールは、消費がモノではなく関係を対象にしており、豊かさないし生きる(存在する)ことは消費の中心にある問題と言う。他方で、ナンシーは実存とは他者との関係性において曝されていることと述べられる。また、神話の論理が絶対的否定性の弁証法を通じて展開されるところも類似している。
否定弁証法で思い出したが、アドルノ・ホルクハイマーの『啓蒙の弁証法』もずっと積んだままだし、このあたりの消費社会の話でいえば、ドゥボールの『スペクタクルの社会』とかマーク・フィッシャーの『資本主義リアリズム』『ポスト資本主義の欲望』も。
記号的消費の話から「推し」との距離感に関する何かを見つけたい。まだ第一部しか読んでいないが、印象的だった部分。
[...]問題となるのは私的および集団的消費の心性なのである。[...]この心性は消費を支配する魔術的思考であり、日常生活を支配し奇蹟を待望する心性であり、それは思考が生みだしたものの絶対的力への信仰(ただし、われわれの考えによれば記号への絶対的力への信仰だが)の上に成り立つ[...]。[...]モノ自体の与える満足は、[...]潜在的大満足や全面的豊富あるいは決定的な奇蹟を受けた者の最後の歓喜のあらかじめ予想された反映にほかならず、この歓喜への狂おしい希望こそが月並みな日常生活の糧となっている。(ジャン・ボードリヤール『消費社会の神話と構造』p.21)