「ねぇ、お人形遊びをしましょ?」
それが彼女〈衣子〉の僕に発した、最初の音色だった。
甘く空虚なディスコード。
彼女はあの頃から美しく、あの頃から完成されていて、そして歪みきっていた。
完璧で、違和感だらけの芸術品。
西洋の神と疎遠な日本人の想像に於ける、ギリシャ神話の住人みたいな。彼女は現実という大気の中で存在出来ないんじゃないか、そんな可能性すら考慮させてみせる。
当時、九歳だった文 衣子は、神の遣いか想像上の生物と言えた。
…ただ、狂ってはいたけど。
今は…違う。
ある時点で彼女はいなくなってしまった。
と言うより、僕が彼女を消してしまった。
この世に唯一人の僕の片翼。絶対的な半身。
汐乃遥鴇と文衣子という番いが、欠落しっぱなしだった現実感を再構築する代償として。
彼女は実在感や現実感に欠けていた分、凄絶な勢いで自分の存在を…いや、爪痕を遺していった。
彼女の言うところの「お人形遊び」も、その手段の一つだった。
その後、暫く僕らは「お人形遊び」に興じることになる。
最初は、「あの場所」に居た他の人間を、思い通りに動かしてみただけだったけど、それが殺人ゲームにエスカレートするまで時間は掛からなかった。
純粋培養の箱庭娘と、外部世界を全く知らないピュアボーイ、無邪気に常軌を逸することが出来た。
「あの場所」で恐らく実験されていた僕らは、所謂世界と隔絶されていた。そして、そんな箱庭に在った常識など、幾らでも歪曲してみせる。
「あの場所」に居たのは、衣子と僕と白衣の各種マッド科学者らしき数人、衣子と僕を個別に担当していた教官達、屈強な雰囲気という鎧を纏った監視員、あと僕らより幾らか幼い少女が一人居たと思う。
僕の十一歳の誕生日に二人で、みんなに「お人形遊び」を仕掛けた。
「身体は殻だ。
心は空だ。
心は躯。
DOLL.
DOLL ICO.」
特に意味は無い。二人で決めた決めゼリフというか、魔法の呪文のようなやつだ。
衣子と僕の「お人形遊び」は、やってることは同じだったけど、作用の方向性が真逆だった。
彼女は僕に「才能がある」と言ってたけど、とんでもない、彼女にはどう足掻いても届かない。
僕は彼女みたいに、同時に複数の人間に影響を与えられない。
しかも、彼女の魔法は空気感染を起こし、対象を浸蝕していく。真っ白なシーツを黒で染めていくように。いや、紅?
それはどうでもいいや。
ともかく、僕にそんなことは出来ない。
大体から、彼女は僕が唯一トレース出来なかった人間だ。そして、その当時の僕は彼女に染められていて、彼女の姿を真似するのに必死だったんだから。
そうそう、「あの場所」から出た僕らを最初に見た誰かは、僕らを「美しい双子」と評した。
「あぁ、コイツは何も解っちゃいない。」
嘆いた。
衣子の素晴らしさが、まるで解っていない。
そう思った。
…で、☆にした。
思えば、外部の人間に初めて仕掛けた「お人形遊び」である。
さて、僕は彼女をトレースしようとしてたけど、彼女はあらゆる点に於いて、僕を凌駕していた。
知識、教養、容姿、センス、技術、実行力、知能、立ち居振る舞い…etc
でも、最も素敵だったのは、殺人能力に長けていたことだ。
大体の手段で同時複数の人を処理できるのだ。注文があれば、それを全く手を汚す事なく行える。
当時の僕には、その能力が最新のゲーム機を学校に持って来た小学生くらい、羨ましく思えた。
そういう事でしか人のステータスを判断出来なかったとも言える。
でもそれは仕方無い。
だって、常識なんて誰からもトレース出来なかったんだから。
「あの場所」で、教官やマッド達が僕に与えたモノは、全てが客観記憶である。
あれが何かの実験だったのも分かる、恐らくそれが失敗に終わったことも(僕らが、一切の実験データと思われるモノを、目を通さずに削除したから)。
けど、その実験が成功していたら、僕らはどうなっていたのだろう…?
それだけが不明である。
…もうどうでも良いではあるけど。
話は変わるけど、今から数年前に「Influencide」という、不可解なまでに人が死んだ現象が再発生した。
約60年前に起きた、第一次の「Influencide」では、自殺他殺何でもござれで、世界人口がおおよそ五分の一になったとされている。
…それもたった5年の間に、である。
世界中の国家はそれを止める術も持たず、人類を滅亡させるかも知れない新たな驚異に絶望した…らしい。
相当数の国が実際に滅亡したとされている。
戦争も起こさずに、人が簡単に減った。
殆どの国家組織は存在意義ごと形骸化し、国民意気消沈、荒れまくる治安、空飛ぶ絶望人間達、そんなの今聞いても爆笑モノのSF(スーパーファンタジー)でしかない。
でも、そんな時代があったんだそうだ。
…まぁ、聞いたとこによれば、「1st Influencide」以前の世界の凄まじい浮かれっぷりも、爆笑モノらしいのだが、詳しくは知らない。
そんな現象が、現在また起こっているとされている。確かに、毎日どっかで宙を舞う奴か、グロい肉になった人間らしきモノを目の端に捉らえることがある。
「爆笑モノのスーパーファンタジーが今、あなたの眼の前に!」
楽しそうであるが、爆笑不可の現実なんだそうだ。
ちなみに、この「続・Influencide」は、僕と衣子の功績に因るモノでは無い。
似たことは僕らでも可能だったが、ここまで広範囲には出来ないし、その頃僕は一般人になる為に涙ぐましい努力をしてた頃だし、衣子という存在は、僕が散らしてしまっていた。
少なくとも、その頃僕の近くに居た、衣子によく似た彼女は、衣子でない衣子的な別人的な同一人物である。
まぁ、ともかく偶像になりかけだった「あの」衣子とは違うわけだ。
そもそも、僕らは「あの場所」から出て以降、殆ど人を殺してなどいない。
まぁ、誰か殺してたところで、機能してない国家の権力に、抑止力は無かっただろうし、どうせ大抵の奴は死にたがっていただろうから、誰も咎めなかっただろうけど、外の世界で少し常識を得た時点で、僕にとって「お人形遊び」みたいな殺人ゲームは、面白くも何とも無くなってしまっていた。
興味が失せたし、衣子は外の世界に出てからすぐ、ほつれてしまった。
彼女は閉鎖されてないと存在出来なかったのだろう。
そして僕は衣子を散らせてあげることにした。
殆ど消えかけていた衣子という存在が、最後に望んだことだから。
僕の中の永遠の偶像として、衣子は記号化されて、散った。
「身体は殻と、
心は空と、
空から殻と、
からからからと。
Ico n.
さようなら衣子。
全てからさようなら。」
そこで文 衣子はいなくなった。
青い目で、白い肌で、栗色の髪で、全てが透明で、全てが完璧だった、僕の大好きだった衣子は、偶像に散った。
<Halcyon Daze. Prelude #0 「Ico」終>