今更ながら、SWAN SONGがエロゲの中でも、屈指の名作(エロゲとしての名作ではないかもしれないが)であることに異論を唱えるものは少ないかと思う。
無論、自分もSWAN SONGに少なからず影響された人間であり、そして、ここに感想とも妄想ともつかない、或る可能性、一つの解釈としての――SWAN SONG、美しき終末について一つ考察を試みたい。
SWAN SONGに描かれた主題とは、一体なんであろうか?
「危機的状況に臨んだ人間達のナチュラルに狂った心情」?
「最後の審判」?それも、あるかもしれない。
さて、北欧神話の中にテーマを紐解く鍵の一つがある。
聡い方ならば「Ragnarok」、即ち――北欧神話に於ける終末を思い浮かべることであろう。
ラグナロク、それはしばしば、神々の黄昏として解釈される。
神々の黄昏、とは何か? それは神々の死、それから神々の堕落、ひいては神々の退きを示すものである。
ハルマゲドンに於ける、メギドの丘で繰り広げられる善と悪の対立でなく、それは神々の敗北を示すものである。
キリスト教の広がりによる、異教文化の改変と言う解釈も出来るかもしれないが、それにして、ラグナロクに関する記述に於いて、キリスト教的な改変は存在してないように見える。(キリスト教の影響でラグナロクが描かれたことには否定しない)
スノッリのエッダにその記述を知られる――「フィンブルヴェト(恐ろしき冬)」。
ラグナロクの前兆として知られるそれではあるが、ここに於いては「Om Ragnarok」著者、アクセル・オルリック同様、「人々の終末そのもの」として扱うことにする。
はたして、フィンブルヴェトの内容は、SWAN SONGを解する上で実に興味深い内容が記されている。
"フィンブルの冬は、夏が少しも間に挟まれることなく3度の冬(風の冬、剣の冬、狼の冬)が続き、しかもあらゆる方向から雪が吹き付ける。この間に、数えきれない戦乱があり、兄弟同士が殺し合う。夏は訪れず厳しい冬が続き、人々のモラルは崩れ去り、生き物は死に絶える。"-wikipedia「ラグナロク」「フィンブルヴェト」の項より。
箇条書きマジックのような言い方で申し訳ないが、これを見てSWAN SONGを思い出してもらえないとなれば、ここまで自分が書いてきた意味は無いに等しい。
SWAN SONGシナリオ上で、厳密に「風の冬」「剣の冬」「狼の冬」に対応するシナリオを当てはめることも出来そうではあるが、各の冬の解釈に関して自分の知識はまだ途上であり、ここでは取りあえず、無視させてもらう。
ラグナロクでは、終末の起こる理由が善と悪の対立ではない。
人々を浄化――あるいは聖別する儀式で無く、いや、結果的にはそうかもしれないが、ここで善と悪は、動機としての存在意義を欠いている。
優しい神は終末戦争に力尽きて死に、復活するが、それは一部の神だけである。
しかし、ハルマゲドンと解釈する上に於けば、キリスト像と、グッドエンドの対比の実に綺麗なこと!
ここに私は、考察に関する揺らぎの余地を覚えるわけであるが、引っ込みがつかないので、やはりこのまま「ラグナロク」で語っていくことにするのさ。
ラグナロクの後、復活する人間や、一部の神は"広大なる風の世界に"暮らすことになる。これは、輪廻的思想ともいえる。
はて、瀬戸口廉也は、ノベルゲームという形式をどのように扱おうとしたか?
私見ではあるが、一つの輪廻として扱ったのではないだろうか?
復活した世界にあるのは何か——神の不在であるかも知れない。
神とは、超越的な人間というのは、世に存在する一つの解釈である。
ならば、ノーマルエンドの中、彼らは絶望の中で、崩壊した教会で、死を眼前にし、Swan-song――超越したもの、を視る。
それは、あろえの起こした一つの奇跡であるかも知れない。
そこで彼らは死を迎え、彼らは生まれ変わる、絶望に満ちた恐ろしき冬から、向日葵の咲く広大な風の世界へ――
ところで、人を救うものとは何であろうか?
真の意味で人を救うことが出来るのは、自身の中にある、それこそ超克した自己、なのかも知れない。
それが神と呼べるものなら、人の中に神はいてもよい。
とすれば、ラグナロクを経由する一種の輪廻は、もしかしたら、人の中に神を生み出す、一種の儀式ではないだろうかと言うのは暴走している、が、しかし、これは可能性を一つ切り開くためのテクストである。
人は、自然の猛威の中に、神を見る、禍の中に神を見る、奇跡の中に神を見る。それは宗教的な神ではない。
――闇に名前を持たせるための、神だ。
恐れを無くすために信仰をする者の様子は、SWAN SONG中にも描かれる。新興宗教「大智の会(だいちのかい)」を思い浮かべて欲しい。
対して、主人公達は信仰の対象を持っていたであろうか?
答えは、否、だと思う。
しかしながら、彼らは心に一つの絶望を抱えていた。また、物語中に絶望を迎え入れた者もいる。
絶望した彼らが神を受け入れるまでの過程という強引な見方なら、キルケゴール的とも言える。名前を与え、形の与えた恐れを、彼らが受け入れたなら、彼らの前に恐ろしきものはなく、そこには救いがあるのかも知れない。
さて、ここまで、ラグナロクを含めたSWAN SONGエンディングについて語ったものだが、やはり自分でも分かるように、これはあくまでを文頭につけることが必要な、仮定の妄想である。
この考察をする意味は一つ、SWAN SONGが好きであることも理由にはあるが、ハッピーエンドを無かったものとして捉える見方に対するカウンターを与えれればと言う意図がある。
妄想ならば妄想なりに、締めの言葉が必要になるかもしれない。
とすれば、一つ本筋から外れた面白い話をしよう。
「フランダースの犬」と言う童話がある、日本でアニメ化されたことで有名な、それだ。
アニメ版の話ではあるが、文字通り今にも死にそうなほど疲れ果て、たどり着いた教会でネロは「ライオンの穴の中のダニエル」という絵画を見る。
「ライオンの穴の中のダニエル」とは、敬虔な教徒が神の加護により、ライオンの穴の中から無事に脱出する話を描いたルーベンスの傑作である。
そこには、信ずる者は救われるような、確固たるキリスト教精神が見て取れる。
しかし、ネロたちは、その絵画を前に死を迎える。彼らは天使に連れられ、神を信ずる一人として、天国へ向かう。それは救い。
だが、キリスト教的な救いであるとも言える。
残された者は、あるいは嘲笑し、あるいはアロアのように泣き叫ぶのかも知れない。
SWAN SONGのノーマルエンドでも、彼らは教会で、神を象徴するものの前で倒れる。
それは、神が天に迎え入れる描写だろうか?
それはあるいは、皮肉――強烈なカウンター――として神の不在を表すものではなかろうか?
しかしこれはまた、可能性のお話。
さて、ノーマルエンドで彼らの死に沿った者に、あろえというキャラクターがいる、そしてフランダースの犬のアロア。
しかしてこの解釈は、また可能性のお話なのである。