Kindleの蔵書を眺めていると買ったことすら忘れてしまっている本が結構ある。これを買ったことをすっかり忘れてしまっていたという本が多い。それも何年も前のことではない、半年ぐらいしかたっていないのにこうなのだ。
いい加減だなあ、と思う。なぜなのか、と考えてみてもその理由は「読んでいないから」に他ならないが、それはしかし「なぜ」の答えになっていない。
忘れることと読んだことの間に、思ったほど関連がない。読んでいても忘れるし、読んでいなくても買ったことを頭の片隅に覚えていることも多い。その辺が不思議だ。
忘れてしまっていることは仕方ない。それ以来数日、積読を耕している。ツイッターを見ていて、あっ自分はTwitterを見ている、と思ったら、Kindleを開いて積読に取り組む。または、すでに買った本をブラウズしながら表紙をあらためている。
そうやって積読のリストを眺めていると辛気臭い本ばかり買っている。肩の凝らない本が少ない。気分転換に読み上げさせようと思っても、「こんなの聞いていても気分転換にならんよ」という本も多い。聞いていてイライラする本もある。
その一方で、小説・文学作品のようなものはどうも読み上げさせるには惜しいような気がして、読み上げさせられない。読み上げするとやはり飛ばし読みにある程度近くなる。読み上げ+テキスト閲覧を組み合わせるとこれが逆に精読になるのだから不思議と言えば不思議だが、読み上げは「ながら」なのだから不思議なことは何もない。
この2年間折々に読み返している平井靖史先生の『世界は時間でできている』の記憶・過去の実在の在り方のことをそれで思い出すことになる。今はある本を買ったことを忘れてしまっていたとしても、過去のある時点で確かにその本を読もうかと思った自分がいた。その感覚という自分を丁寧に掘り起こして呼び覚まし、読むことは十分可能である。また同時に、その後にいろいろな本を読んだことも合わせて経験することもできる。怖気付く必要はない。
正確にいうと「読みたい」という思いで買った本ばかりでもない。「安かった」というのもある。だがそれでも、ちょっとは読んでもいいかなという思いがあることが大半であり、その感覚を支点にして掘り起こすこともできるだろう。