モノは使えればいいと思っているので使える限り使ってしまう。物持ちがいい方ではないと思っているが、ときどきふと気がつくと長く使っているものがある。少しくらい擦れていても使い慣れてしまっていて手放せないことがある。うっかりすると崩壊寸前になっている。
Apple watchも第二世代という骨董品に近いモノだが、時刻と簡単な通知は知らせてくれるため使っている。買い換えるという発想にならない。モノが高いということもあるが、いつのまにか買い換える時期を逸している。幸い今、2024年の段階ではまだ、OSが互換性を維持してくれている。やがてそれも失われるのだろう。ひょっとすると、Apple Watchがいまのまま使えなくなったら、もうApple Watchをただやめて、カシオやシチズンの気軽な時計にしたいという気はある。ただ正直なところ、活動量を見積もって目標を達成するムーブリングが2000日以上継続していることは、途切れるのが勿体無い。それで結局新しいものにしてしまうかも知れない。そうはいっても、活動量計としての出番の本分であるエクササイズのときには、一応使ってはいるものの、本当に必要かどうか問われると自信を持って答えられそうにない。
電子書籍を読むKindle端末も、ケーシングの被覆になっているシリコン素材が擦れてきた。
これはいつから使っているのだろう? 結婚して山科という街で暮らしているとき、防水でお風呂でゆっくり読むのがとても良かったのを覚えている。2017-2019のいつかではあると思うので、すでに5年以上は経過しているだろう。
反応スピードは別にスマホほどではないものの、そんなもんかなと思っている。軽くて電池が持ってくれて、防水でバックライトもついてくっきりと表示してくれるだけで満足している。すっかり生活になくてはならないものになっている。
出かけるときにひょっとすると時間ができるかも、でももしかするとスマホの電池が切れるかも、というときにも、Kindleを放り込んでいくと心配しなくていい。これは習い性のようなもので、出かけるときに本をカバンに入れていないとなんとなく落ち着かない生活をずっと続けてきたのが、スマホとかKindleによって軽減したものである。
電子ペーパーディスプレイのKindle端末は実はこれでもう四台目である。12年前に最初のKindle端末を買った後、米国Amazon用の端末が2台、日本Amazon用の端末を2台買った。米国端末は1台ディスプレイを破壊してしまった。日本端末は昔の同僚に差し上げた。結果として、現在の手持ちは2台である。残っている12年前に買った米国端末は当然日本語は入力できない。これで読んだ本はそれほど多くない。ついつい日本語の本に手が伸びてしまう。英語で読むとスピードが上がらないからだ。まだるっこしくて我慢できなくなってしまう。飽きてしまうのだ。
Kindle端末はKindle書籍を読むためのものである。そのため他のインターネット活動には適していないから、スマホ依存の行動に対して幾分良い効果を生んでくれるのを期待して持っている。『限りある時間の使い方』でもそのように論じられていたし、『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』にも同様のアイデアで読書特化端末としてiPadを利用する指南があるが、ただこれは錯覚である気がしないでもない。
実は昨年もTwitter依存を自覚して、Kindle読書を重点化した時期がある。ちょうど5月ごろだ。
以前に書いたようにいまのアプローチは複線化だ。依存する先を増やす。SNS・スマホ依存だというなら他のものにも依存していく。それがしずかなインターネットかもしれないし、Kindle読書かもしれないし、Kindleではない読書かもしれないし、ほぼ日手帳かもしれないし、筋トレ・ジョギングかもしれない。
ただ、依存というやつは、割合に早く反応が見えるからする。SNSが怖いのはそこだ。そしてこの他のものについていうと、反応はやはり遅い。読めば読んだだけ進捗のわかる読書と、翌日か中一日で筋肉痛になる筋トレ以外は、しずかなインターネットなら草(GitHubのコントリビューションで枡が緑に塗られるのをそういうらしい。しずかなインターネットにも同様のインタフェースがダッシュボードに実装されている)をはやしていくことだろうし、Kindleも実は連続読書記録がある。ほぼ日手帳は毎日埋められていること自体を喜びとする以外にない。どうしても反応の強烈さにおいてSNSにかなうものではないが、ぼちぼち進めていくよりほかはないのだろう。