2024年春の段階で、論文を書くのが難しいプロジェクトについている。どう進めたらいいのかわからない。結果が何なのかわからない。難しい研究なのだとはわかっていて吐きそうだが何とかするしかない。
この困難をいちばん感じたのは何を結果として書いたらいいかわからなくなったことだった。「書くために論文を読め」というアドバイスはよくある。そうした活動で論文を書くことを自分も学んできた。
しかし、新たなアプローチでの論文はかなり書き方が変わる。究極的には、どんな研究・論文を参考にするとしても、ある程度までは参考になったとはいえ、最後の一インチは自分で考えなくてはいけない。必ず何処かには新規性があるものだし、逆に新規性がなければ論文になどなりはしない。そして、場合によってはむしろ他の既存の論文を読むことが邪魔をすることもあるかもしれない。
勉強不足との顰みもあるだろう。それは紛うことなき事実である。ただ論文執筆の本義に立ち返って言うならそれこそ一つ一つのステップを立ち上げていくような感覚でやらざるを得ない。
とりあえず今のこの論文ではリザルト、結果とは何かということを自分なりに徹底的に考えてみた。何を言いたいのかということを一旦離れて、今、手持ちのことが何を語っているかということを虚心坦懐に聞くような気持ちで見た。
仮説は何だったのか。
自分たちは何をしたのか。
そしてその「結果」、手中にある実験・プロジェクトにおいて、やって出てきたことは何を意味しているのか。
文字通りの「結果」という考えを頼りに論文を組み立てていく感じがある。何を言いたいのかも、誰かが類例でどうやっているかも一度傍に置いて、自分が見ているものをどう描写するかというところから入る。それが何を意味するかは、ベタなことはそのまま結果として書けば良い。他の研究と比較衡量して真に意義を論じられることは考察として書けば良い。
そうして考えたことを書いて、上司に提出した。真っ赤になるかもしれない、どころの騒ぎではない。確実に真っ赤になるのは前提だ。それどころか構成自体原型をとどめさえしないだろう。
わたしは10年前からこのラボの上司とそのようにして論文を書いてきたし、そして無論それで良い。自分の貢献とは自分の文章がどれだけ残るかではなく、自分がどれだけ人を触発するかにある。それは究極的には読者ではあるが、まず上司を触発する。
ひとまずは一つ形を作ってみるというのは常道だ。その上で話が始まる。幸いなことにその方針で上司も居てくれる。とにかく前に進むためには前に進むしかない。