10年以上前にアメリカのスーパーでレジに並んで商品を精算するときにレジ係に「この卵、割れてるから交換するね」と指摘されたことがある。こちらでよく見る、パルプ整形された卵のパックは開けて見て初めて分かる。周りを見ていると確かに、選ぶときにパックを開けて確認してからかごにいれている。そして割れているものが売られている可能性があることを学んだ。この交換はひとえに店員の善意ではあったが、ときにそういう気づかいがないことも往々にしてあるだろう。そうやってうっかり、卵が一個少ないようなときは損だが、手続き上は顧客の責任となってもおかしくない。
それがアメリカだといいたいわけでもないし、ましてやそれを非難もするわけではない。また気づかいのある店員を称賛するわけでもない。ただそういうひとつひとつのことによって社会生活は成立していることをあらためて気がつくことになった。またそのときに、商品に欠けがないという期待というのも結局は慣れだなと思う。
日本のスーパーで卵がどうやって売られていたかというと、透明のプラスチックだったと思う。調べてみるとポリエチレンテレフタレートつまりPETだ。あれだとそもそも抜けていれば手に取らないという以前に流通過程で気がつくことになるだろう。それは責任の問題になる以前の状況だ。店頭で明らかに一個欠けていたらおそらくパックを買わないので、10個入りパックに9個しか入っていなくて、パックの値段が同じで精算されたら、11%も割高になってしまう。よほどそれだけ売れ残っていて、しかも「今タマゴを食べないと死ぬ!」と言うような状況でないならば売れないだろう。生産者・流通者・販売者にとっても、そうやって買われないパックは残りの9個が無駄になってしまうから、気付いた時点で欠けた一個を補充しただろう。
ポリ袋で包装されたマフィンを買おうとレジに持って行ったら、レジで「このマフィン、カビ生えてるよ」と指摘されて交換したこともあった。危ないところであったが、そもそもカビ生えたものを並べておくなよ、生産するなよと思わないでもない。そうは言ってもそういうものは歩合で出てくるのも世の常である。
あるいはいつも購入するベーコンも、使っていて、ある時のパッケージはやたらと脂身が多くてちょっとキツいなと思ったことがあった。しかしそれも、よくみてみると、パッケージは透明で中がちゃんと見えるようになっている。そうやって、肉質の多めのパッケージを選ぶと言うのも消費者側でできる心構えだと気がついた。
よくみてみるとこうした気配りはそこかしこに見受けられる。原則として消費者・顧客側で確認ができるものについては確認をして買うが、店員側も別に悪意でババ引かせようとしているわけではないから、気がついたら言ってくれる。あくまでお互いの歩み寄りで流通ができている。