朝起きて子供の朝食を準備する。メニューにはいろいろとやったがいまおおむねクロワッサンにクリームチーズを塗って食べてくれている。起きた子供は両親のベッドにやってきて暴力的に起こしにくるが、目覚めのいい私がクロワッサンの支度をやることも多い。
基本は大した朝食ではない。ごく簡単だ。
スーパーで買った6個入りのクロワッサンが冷凍庫に入っている。それをエアフライヤーで300℉で6分解凍とともに温め直す。焼き上がったら薄くパン切りナイフで二分して、ホイップクリームチーズをプラスチックのナイフで下のクロワッサンの切断面に塗り広げる。上のクロワッサンを載せて合わせ、子供の一口サイズに切り分ける。そして蝶々のかたちをした皿に並べる。
そのあいだ子供は「しなぷしゅ」を見ている。しなぷしゅを見るのが朝のルーティーンになっている。ルーティーンを作ることが大事であると『ミニマル子育て』で読んだ。その本を金科玉条にするわけではないが、ルーティーンというのもいいかもしれないなと思っている。その一方、しなぷしゅをルーティーンにするのがいいかどうかは自信がない。この点で当家ではどちらかといえば妻からお目溢しをもらっているという表現に近い。子供はしなぷしゅを朝の時間に見たがるし、その間わたしは朝食の支度をできる。あまり映像漬けにするのは私も嫌だが、さりとて全く映像に触れさせないということもむずかしい。
わたしは子供が産まれて以来、育児の諸活動を子供の注意力のマネジメントだと思って進めていることが多い。どこから影響を受けているかといえば先述の『ミニマル子育て』は大きいかもしれない。本が手元にないから確認することができないが、子育てがミニマルであるという旨も注意力のマネジメントを通じて適切な発達をガイドするというものだったという記憶がある。
さて標題の「絶望うさぎ」という、ほんの少しだけセンセーショナルな文言である。私はしなぷしゅの最後半に出てくる、うさぎのアニメーションのBGMをそう呼んでいる。このうさぎのアニメーションは最後から3番目のコーナーで、日ごとに変わる最後の「アンコール」、その前にあるエンディングテーマ(「おわりぷしゅ」)を残した局面になる。
このうさぎのアニメーションは全く絶望でもなんでもないのだが、やや露悪的にいうなら、ほのぼのトーンを強めにしたピーターラビットのようなもので、ちょっとヒヤリハットな事案が起きるが取り越し苦労だということがわかるとかその程度である。絶望の側面はほとんどない。それをなぜ絶望と呼ぶのか。
もちろん、しなぷしゅの番組の終わりが近く、子供がしなぷしゅから離れてこっちに注意力を向けてくるからである。それまでに上記のクロワッサンのスライスまで完了できていれば何の問題もない。しかし、朝起き抜けのキッチンというのは、前夜に洗って乾かした食器類を食洗機の内外等から引き揚げて戸棚に戻さなければいけないので、そうした作業もやりながら、クロワッサンのスライスとクリームチーズのスプレッドとスライスまでもやりながらやっている。そこに、うっかりと日本のツイッターの発言を見て反応し、考えたり書き込んだりしようものなら圧倒的に自分の注意力を持っていかれてしまい、うさぎアニメーションの特徴的なBGMを耳にして、スライスしきれていないクロワッサンに絶望するということが多々ある。そういう事情で私はしなぷしゅのうさぎアニメーションを絶望うさぎと呼ぶようになってしまった。
妻はその絶望うさぎというあだ名を聞いて、もう少し何とかならないのかという。わかっている。全ては私が注意散漫であることに起因する。
注意を集中して一気に家事を終わらせる、ツイッターは一切見ないという付き合い方をしているならいいのだが、残念ながらツイッターへの依存は骨がらみになってしまっている。依存症というものの常だろうが、一度なってしまったらもう適度に距離を保つということができない。時間ロックをかけても何をしても迂回路を考えてしまい、頭の中ではぐるぐると依存症の悪循環が回る。実際こうして文章を書いているときもついついTwitterを開いて書き込んだり反応を気にしてしまう。よくないとわかっていつつそうしてしまうのだから始末が悪い。
食事中はスマホを見ないようにと、『スマホ脳』を読んでいた妻から厳命されているし、それはなんとか守っているつもりである。とはいえ、天気を確認するような時に通知が目に入ることもあり、決して厳密なスマホファスティング状態ではない。
3歳の我が子もそうした親の性向を今では少しずつ感じとっている感じもする。何を言っても上の空か、生返事をする、というほどではないように振る舞っているが実際は大して変わらないだろう。