先にも書いたのだが比較的重篤なスマホ依存をしている。妻から指摘されているが自分でもわかっている。そしてさらに依存の常として、「適度な付き合い方」というのが難しいということもわかっている。
依存してしまう行為のことを嗜癖というようだ。例えば一度しばらく徹底的に嗜癖を絶ったとしても、少しぐらいならいいだろうとごくコントロールされたと自分で思った程度、つまり「たった一度と決めて」という程度に行為を行なってしまうともう元の木阿弥で、徹底的に嗜癖を絶つ前の状態に戻ってしまうらしいと読み齧って知っているが間違っているかもしれない。ただ、私のスマホ依存という嗜癖の反応はその元の木阿弥という感覚をよく示しているように思う。とにかく一度でも復帰してしまうといけない。スマホ依存、と書いているが実際にはSNS依存で、ふとした瞬間に書きたくなってしまうこと、反応が気になってしまうこと、そして見たらまた何か書きたくなってしまうということに尽きる。全く、うまく人間の心の隙間につけ込む恐ろしいものを世に放ってくれたものだと思う。
さて依存という、それなりに重たい単語を含む言い回しで近年有名になりつつあるものに熊谷晋一郎氏の「自立とは依存先を増やすこと」がある。これは障害の本質を依存先が少なくなることであり、逆にいわゆる健常なることを依存先が増えてその反面でそれぞれへの依存は希薄化する、いわば希釈することで依存っぽさを消しているだけなんだという視点の転換の言葉だった。
それでは依存も希釈すればいいのだろうか。一概に害となっているとは言えない場合になるだろうが、そうしたものであっても継続的な嗜癖として依存に類似した行動パターンをとるということが今私が気に掛かっていることなので、依存を希釈するとしたらそれこそ私はこのしずかなインターネットであったり読書であったりで希釈をしているとも言える。もっとないのかと思うが、あとは本当に家族のことをし、家事をし、妻や子供と向き合うということになる。そうしたことで個々の行動は希釈され、嗜癖らしさの印象を薄めていく。
何かの嗜癖を「ほどほどに」という時、限度を知るということ自体が難しいのが嗜癖なのだから、結局他のことで強制的に薄めるしかなくなるのではないか、と思う。それが「自立とは依存先を増やすこと」という命題にダブって見えたということだ。