「剥製さんは、べつに性格がいいとは言えないよね」
吉祥寺の焼き鳥屋にて、瓶ビールを彼のグラスについであげている最中、彼はあっさりと凄いことを言ってのけた。「だから、人間味があって好き」そう言って、私がついであげたエビスビールをごくりと喉に流し込んでいく。なぜこんなにもハッとさせられたのか。べつに、自分自身、この性格がいい性格とは言えないことくらい自覚している。他人に言語化されて、改めてその事実を突きつけられたことに若干憔悴してしまったのだろうか。うーん、ちょっと違う気がする。もっとこう、自分自身に対する落胆めいた感情を覚えた。
「あー、やっぱりそう思う?」 感情を悟られないように、あくまで、自覚はありました、みたいな風に言う。そして誤魔化すようにして、エビスビールを飲む。
「性格がいいとは言えない」と言われたきっかけははっきりしている。私が他人の不幸を願うようなことを言ったからだ。生々しいから端折るが、「あいつの不幸の上ではじめて私の幸せが成り立つはずだ」的なことを言った。字面だけ見て、うん、性格がいいとは言えない。
ぼんちりの串を外す。つくねの串を外す。レバーの串を外……そうと思ったら、肉が固くて上手くいかない。見かねた彼が「そのまま食べな」と促してくれた。遠慮なく、と、レバーをばくばくたべる。こういうところも含めて、性格がいいとは言えない。
高3くらいまでは、かなり頑張っていた。性格が悪いと言われてしまったら、もうそれは人間としておしまいな気すらしていた。だから、下手に下手にでることを覚えた。テスト前は得意科目の勉強会を主催したし、頼まれればレポートの代行もやった。その分の対価として、ただ、「いい人」のレッテルを貼って欲しいと思っていた。だって、可愛くなかったから。
この顔のせいでいい人でいられたし、この顔のせいで悪い人にもなった。可愛いあの子たちは、こんなことすら考えずに生きているんだと思うと、世界ごと呪ってしまおうかという気持ちになった。あ、ほらね、性格悪い。
大学生になってメイクを覚え、コロナ禍に10kg以上痩せた私は、そこそこに納得のいく顔面になっていった。早く可愛くなって、楽になりたかった。でもそうしたら、ただの微妙に自信の着いたお世辞にも性格がいいとは言えない人間が爆誕する結果となった。皮肉なものである。ああそうか、自分が失ったものがなんであるかを、さっき突きつけられたんだ。
自信に比例して、どんどん欲張りになっていく。どうりで争いが耐えないわけだ。自信家になればなるほど、野心家にもなり得るのだから。
2017年7月12日、当時高校一年生のときに書いた私の日記には、こう書かれていた。「やっぱり、人に好かれたいと思うよりも、人のこと考えて生きられる方が、実は愛されるんだろうな」
私は、一体どこで大事なものを落としてきたんだろう。