所持金2700円の状態で、後輩にバーに誘われた。 話したい話もあったし、伝えたい明るい話題もあったから、所持金が2700円だったけど、行くことにした。 父親に、「特段お前のことは心配していないが、やたらと気前がいいのだけがこれから先心配だ。」と言われたばかりだ。 たぶん彼は、所持金が2700だろうと誘われればひょいひょいと飲みに行ってしまうような私の軽やかさを憂いているのだろう。 さすがは親だな、と他人事のように関心してしまう。
所持金2700円の状態では、お会計のことが気になって気持よく酔えない。 貧乏人には、酔って現実逃避する権利すら与えられないという現実を突きつけられる。 ははは、やってられないぜ、と神田川に身投げを検討するが、この思いつきが逡巡へと成長する前に、別のことを考えようと努める。 そうして肺の空気を出し入れして、オレンジの光が煌々とひかる店のなかで、再び、ちびちびと酒を口にする。 そういう自分を、一ミリも惨めだとは思わない。 小さな肯定の積み重ねを、砂の城を築くみたいにていねいに育てていく。 玄関に花を飾るみたいに、頭のなかに花丸を増やしていく。 でもそれも、「あなたの一貫性のないところが苦手」という後輩からのお説教によって簡単に崩れた。 誰のために来てやったと思ってるんだ、という言葉が喉まででかかって、ワインで流し込む。 うん、やっぱり、身投げしよう。
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ものの一年前くらいまでは、私は自分のことをくだものだと自認していた。 きっと私を齧ったら、甘くて、苦くて、瑞々しい液体があふれ出すんだろうな、と信じて疑わなかった。 なのに今は、その信仰をすっかり阿呆らしく思ってしまっている。 きっと今の私は、しおれた花をかき集めて、無理やり縛ってできた花束のようなどうしようもなさだろう。 いい香りもしないし、もうドライフラワーにすらなれない。 そのことに、もはや絶望すら抱かない。 諦観、まさしく諦観だった。
「誰の味方にもならないけど、誰の敵にもならないよね」 まさか、誰かから言われたことを、ここまで根気強く恨み続けるなんて、自分でも想像していなかった。 絶え間ない努力と工夫のうえに育ててきた物腰のやわらかさが、他人の目にはそういう風に映っているらしい。 なぜだかそのときは、無性に腹が立った。 いま、「その通りだよ」と降伏するつもりは毛頭ないけれど、まあ、うん、それもしょうがないことだよな、人間いろいろいるしな、うんうん、とまあ形式上の納得はできている。 納得はすべてに優先する、というのはすごいセリフだ。 じゃあ、と二マスくらい戻ってみる。 あのとき腹が立ったのは、どうしてだろうかと考えてみると、たぶん私はそのとき、全人類の味方であれるように、とにかく必死だったからだろう。
まあるいまま、貫きたい。 強さは、角だけに宿るものではないからね。
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そういえば、この年末年始は、例年に比べて飲みの予定が少ない気がする。 卒論を書いたり、来年からの社会人生活に向けての準備をしたり、なにかと切迫感のある生活を送っていたのが原因だろうと思う。 そういう年末年始があることだって、ある。人生だから。 2024年の目標は、「誰も裏切らない」だ。