2011年3月11日は幸いにも自宅にてゴロゴロしており、あの瞬間も自分のベッドで涅槃のポーズをしていた。片付け損ねたまま地層さながらになっていたプリントの山が机からズザザザと崩れた時は、「あっこれ片付けんのだるいな……」って正直思っていた。リビング兼ダイニングの開けっ放しの食器棚からグラスがひとつ飛び出した程度で、我が家はまったくの無事であった。
わたしの震災の記憶なんてこんなもんである。当時大学生。ただし、前日まで中学時代の友達と夢と魔法の国へ泊まりがけで遊びに行っており、計画時点では候補日が9~10日、10~11日の2択であったため、1日ずれていたら帰宅難民と化していたというちょっとしたヒヤリ、はあったけれども。
通っていた大学の(当時は)助教の先生が、震災について「大丈夫だった?」から始まるコミュニケーションの手段になっているね、と言っていて目からウロコだったのは覚えている。確かに大して仲良くないサークルの仲間同士でも、「あの日何してた?」からお互いの近況なり体験なりを話して、無事で良かったと言い合えていたのだから、実際その通りである。西日本の方の実家に帰っていてなんの問題もなかった子、出かけた先で帰れなくなってそのまま広域避難場所に指定されていた公園で半日過ごし、歩いて自宅まで帰った子。一人暮らしだと怖いから友達の家へ押し掛けていた子。様々だった。
当時わたしの住んでいたエリアがたまたま首都機能と関連が深く、計画停電の範囲外だった。けれどもテレビは繰り返し津波の映像しか流さないのでわたしはそれがトラウマになり、ヤシマ作戦とかオタクたちが言い出して自主的に家の明かりを消して過ごしたりもした。ジャニーズのペンライトがコンサート以外で役に立つ日があるとは思わなかった。ずっとSMAPの地球儀デザインのペンライトを青く光らせていた。
今年のお正月のあの地震の有り様をネットやテレビで知れば知るほど、備えるということについて考えさせられる。物資の備蓄ももちろん重要ではあるのだけれど、どちらかというと冷静さを失わずにいられるかが重要な気がする。
13年前のあのときも、父が外出していて、家にいるのは半分ボケかかった祖母と人工透析をしなければ生きていけない母のふたりという状況で、妙に頭のどこかが冴えており、“もしも”のために強い口調で外へ出ようとする祖母を叱り、頭を守るよう母に指示を出した自分はなかなか生存本能が強かったんだ、と今になって思う。偉かったな。
まあ、正直に言えば、ぺしゃんこになってさっさと死ねた方が、色んな意味で楽だよなあと今のわたしは思っている。もう守らねばならないものもない。
父との合言葉は「命があったらまた会おう」である。でも似た者親子だから、なんだかんだ生き残って「死神に嫌われてらぁ」と笑うんだろうな、と思っている。