人間は生来備わった「性格」を「変える」ことはできないが、生きる過程で「性質」を「加える」ことはできるらしい。
いつ、どこで聞いたかも忘れてしまった話だが、たった一度だけ聞いたその話が、当時は未成年だったながらに腑に落ちて、30代になった今もこうして心に強く残っている。
何を隠そう、自分自身にそういう気があったからだと思う。生来備わった性格の赴くままに行動⇒失敗・後悔⇒そこから学び、それを防ぐ性質を足す…といった具合。
例えば、生来の私は嫉妬深い質で、中学時代にとても仲の良かった友人が1人居たが、別の友人があからさまに私とその友人の間に入ってくるようになって、私は次第に仲の良かった友人を避けるようになってしまった。もともとクラスが離れていた上に部活の引退時期と重なってしまい、今でも人には大っぴらにしにくい趣味もオープンにできる大変気の合う友人だったのに、すっかり疎遠になってしまった。以来私は、同じような状況になると、さりげなく自分が引くようになった。最初はイライラすることもあったが、そのイライラに対しても「もともと話したかった(仲良くしたかった)相手が楽しそうなら良いか」と思い込んで昇華させる、という具合。
上記は悪い例を挙げたが、もちろん、失敗から学び、性質を足すこと自体は決して悪い事ではないと思っている。きっと誰もがそうやって物分かりの良い「大人」に成長するのだろうし、波風を立てない術を身に着けるからこそ社会で上手くやっていけるのだから。
だた、自分に「性質」を加えすぎた結果なのか、加えられた「性質」が馴染み過ぎた結果なのか、私はちょっとした壁に直面している。自分の本心がどれか分からなくなってきているのだ。
波風を立てないように、他人と衝突しないように、嫌な思いをさせないように、迷惑をかけないように、我慢と誤魔化しばかりが上手くなって、現状への不満も本音も言語化することさえしなくなっていたもんだから、気付けば自分が本当はどうしたいのか、どうにも言葉に出来ていないらしい。
今の会社に入社して1か月ほどの頃、上司に嫌なことを言われてものすごく不快な思いをした後、先輩が愚痴っていいと言ってくれたのに、結局何が不快だったのか、終ぞ言えないままだった。自分のこういうところに非があったから相手はああ言ったんだと誤魔化し、愚痴って相手まで不快な思いをさせたくないと我慢して。――その時は先輩が根気強く聞き出してくれて、実に久方ぶりに本心の愚痴を吐き出すに至ったから随分胸がすく思いになれたのだけど。
その先輩も退職し、衝突を避けるあまり意見を言えない自分に今の会社の社風が合わなくて転職活動を始めたが、自分に本当に合う仕事を見つけたくて色々考えてみてもどうにもしっくり来ない。面白そうな仕事を見つけても、その仕事に就いた先のステップで何を成したいのか何も浮かばない。それは自分の本心ではないからだと就職アドバイザーに言われて、ううーんと唸ってしまった。
いつか自分の本音とちゃんと向き合える時が来るんだろうか。
その時、これだと思える自分の道を見出すことが出来るんだろうか。
もどかしい気持ちに苛まれながらも、こうやって言語化してみることで何かが見えるんじゃないかと思ってつらつらと書き連ねてみるのでした。