ここ数日、「桐島聡とみられる男」にかんする話題ばかりを追いかけている。
彼自身が何を考えながら生きてきたのかということと、彼が「うーやん」として生きていたころに親交があった人たちはいまどんな気持ちでいるのか、といったことについて、興味がある。
彼はたしかに自分にとっては「うーやん」である彼であったが、私の知らない彼もまたいて、最期に彼は「本名で死にたかった」とかたったのだ。そのとき、自分にとっての「うーやん」を失わされたような気持ちにならないか。
私がおじを「うしなった」とき、「私は彼の何を知っていたのだろうか」と思った。彼は私どころか本当に誰にも、誰にも何も言わずに消えた。彼は私から失われた。一方的に、彼は私から、彼を失わせた。
と同時に、「近くにいても人のことはわからないのだ」と思い、私も何か悪かっただろうかと思った。あの人は誰だったのだろうかと思った。
昨年あたりに、テレビ番組の「報道特集」で、「無戸籍」の特集を見た。とても衝撃的だった。
戸籍がないために小学校へ通えなかったという人物が、自分の年齢がわかる唯一の手段が「幼稚園の卒業アルバム」だった、という内容があったと思う。書類や(まともな)親などがいなければ、「私は誰なのか」、まったく宙に浮いてしまう。
なんだかまとまらないのでこのあたりにするが、「その人をその人たらしめるものとは」と考えている。
別人として生きることもできる。
私のおじはいま、だれなのだろうか。