202409

hanbara
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公開:2024/10/2

20240901

結局、朝帰り。電車に2時間乗ってしまった。睡眠を取り、日曜美術館の再放送をみる。内藤礼特集。三本松さんの数奇屋を例に出した話しに拳を打った。内藤礼という作家は空間的な作家でもあり、内藤が創出する空間に対してなんらかの批評ができないかと頭をいつも抱えてしまう。

20240902

麻布台ヒルズギャラリーで「カルダー:そよぐ、感じる、日本」をみた。会場の規模は小さいがカルダー作品のスケール感を楽しむ。会場写真は様々な媒体で散見され、行くのに躊躇したけれど行けてよかった。《Black Beast》(1940)は、天井高に収まる高さである。この高さは発注先の家のサイズとも同じらしく、家に飾られた写真もあった。怪物が鎮座している様で、発注者に中々の気概を感じる。映像も展示されており、子供がカルダーに、なんで作っているの?と質問していた。カルダーは面白いから、と子供に伝える。煙草をふかしながら制作する工場の優しいおじさんといった風貌で、次々と作り上げていた。平面作品は大胆なタッチであるため、カルダーはペインターではなく彫刻家なんだなぁ、と素朴に感じる。図録も立ち読みで斜め読みしたけれど、小津安二郎の映画作品とつなげた論考があり、私にはいまひとつ咀嚼できなかった。小津の「東京物語」に登場する氷袋の吊し方がカルダーの彫刻を思わせる、という印象批評。私の読みが浅いかもしれないが、カルダーとつなげるのに無理はないのかしら、と思う。

伊藤比呂美「犬心」読了。犬の話といえば、飼い犬の話、という先入観があった。確かに、飼い犬についての話である。が、犬と人間である我々は会話できないですよね、という前提から話が進む。けれども、犬と同居する中で、犬にもなんらかの感情はある、という話に進行していった。それは、町田康の解説を読むとさらに分かってゆく。町田はそれを器に入った水を例に解説した。水は器の大きさによって変化する。それと同じく、犬がこう反応してますよね、という犬の反応について我々は人間の言語(器)で解釈してしまう。町田の解説ではその犬の反応について、名犬の話とも絡めながら話を展開した。名犬は人間に尽くして、人間が持てない実直なまでの忠誠心がある。犬は我々人間の物語を背負っており、元々持っている野生の本能が人間に飼われて変質した。それを伊藤は、生ヶ世ヶの犬心、と書く。本書を読むと、犬の愛らしさとともに臭気を感じる。その匂いが野生的でもあり、後半に近づくにつれてそれだけとなった。

20240903

人形町で高校と中学からの同級生、kとmにひさびさに会った。高校の頃の同級生。3人くらいがちょうどよい。mがiに電話をかける。iはフットサルの後らしかった。

20240904

「アートワーカーズ 制作と労働をめぐる芸術家たちの社会実践」読了。前半はミニマリストの男性作家たちの行為が切なくなってしまった。けれども、後半以降のアートワーカーということばの確率以降、アーティストとしての手法が際立つ。そして、解説を担当する執筆陣も個々の色がある構成。章と章の間にあるインサートとしてほどよい。

20240905

ポッドキャスト番組「アートでもないこうでもない」を聴く。みんなでやろうとする感じよりも、日々できることを当たり前にやる方を意識した方がいい、らしい。

20240906

水戸芸術館の開館記念の展示をある関係で覗いてみた。関口敦仁という作家の展示風景がトップページに掲載されている。この作家について調べてみたら、髪の毛が赤髪にパーマをかけた感じになっていた。シンプリー・レッドみたいだな、と思う。

20240907

佐倉にある美術館の署名活動が活発化している。確かに作品が散逸するのは危機感があり、署名もした。けれども、よくよく考えると偏ったアメリカの美術作品のコレクションはもう少しできないものかなと思っている。そのポテンシャルが活かせなかったのは、館の運営に他ならない。個人的に思い入れがあるのは中学の頃からよく通った博物館、れきはくであった。毎年の様に学校側が行かせており、川村は大学に入ってから。そのためか、れきはくの方が愛着はある。その体系的な資料に基づいた館の運営も故に。

退勤後に銀座で立ち食い寿司を食べ、映画館で「ナミビアの砂漠」をみた。大音量でホストのコールを浴びる。

20240908

ザ・ノンフィクションの「ほめる人とほめられる人 ~褒めますおじさん 令和の路上物語~」をみた。ほめられたい、というその感覚について考えてしまう。ほめられている、それは他者から与えられている感覚。その感覚は単純にうれしいもんだ。が、場合によっては麻痺であり、正直に物事を考えてしまっていいのかの分かれ目。映像に登場した左遷された男性もそのひとりかもしれないし、お金を払って褒められる。ちょっと虚しい。その短い時間(ちょっとの時間)にお金を払うのがいまっぽかった。また、褒めますおじさんがその仕事に転身する前にはギャンブルと父との関係がある。その上での褒めます。彼の労働環境、父との確執はいかにも男性性の問題であり、感情労働は社会的な問題である。が、ほめる人とほめられる人が出会う時間は大切な時間であってもいいものだ。世間が時間とお金を圧縮しようとしても。

20240909

ポッドキャスト番組「問わず語りの神田伯山」の先週回を聴いた。講談師、神田伯山が美術館の音声ガイドの仕事をすることになり、勉強がてらひさびさに美術館に行ってきた回。東京都現代美術館でふたつの展示を見たらしい。神田は高橋コレクションよりも開発好明展が面白かったため、それについてのレポートをしていた。美術展を臨場感持って解説する語り口は、講談師の技だと思う。この真面目に不真面目具合を見習いたいものだ。

脚にできたできものを皮膚科で取った。2週間ジムに行けなくなるため食事制限に努めようとする。

20240911

お昼はセブンのサラダチキンバー、スモークペッパー一択。Oの展示をみに本の朗読を勉強している人と図書館へいった。

20240912

Oと話している、前衛と男性との関係について色々イメージしながら、窓を割って屋根まで登る感覚とか。そんな夢をみた。窓を割って外を出る怖さで起きて、アリ・アスターの「ボーは恐れている」のシーンみたいだな、と思う。また寝て、tと合宿先の旅館でトイレがない!と言いながら探し回る。旅館の2階から1階への階段が忍者屋敷のように、布団が入っている襖を開けなければ出てこない作りになっていた。探し回った挙句、トイレかと思えば、多目的トイレにある様な広めの洗面台でtとガッカリする。二度寝でまた変な夢をみた。

20240913

いまさら、ラジオ屋さんごっこの美大について話している回を聴いた。やな授業を思い出していたりする。ときたま、なんであそこ通ったんだろ、と思い返す度に例の教授が行っていた学部2年生の頃の講義にいきつく。それっぽい話をラジオで聴いてモヤモヤした。

視る/視られるさえも風化しつつある批評言語となりつつある。というのは、それにまつわる言葉が増えてきていると解釈できる。が、その言葉を言葉遊びとして語るのではないかたちで、動いたりしないとまた振り戻しされそう。

20240914

仕事で学芸員を目指す学生の質問に応えた。充分に答えられただろうか。学生の頃は学芸員資格の授業で何を考えてたっけ、となった。

家に帰り、いまさら「海のはじまり」7話をみる。古川琴音演じるシングルマザー、月岡さんが同僚でゆくゆく結婚する池松壮亮演じる津野さんと出会う。その間に月岡さんは何かの端にシングルマザーであることのしがらみとかをどっと津野さんに言ってしまう。それは、一義的に自分の属性に陥ってしまう感覚。津野さんは何も知らないけれど心配してやらかしてしまう。2人の関係性にバランスの不均衡を感じて、なんだかみている私も焦る。

20240915

埼玉県立近代美術館の「吉田克朗展―ものに、風景に、世界に触れる」をみた。制作ノートでは、世界について、芸術について、といった問いについて書き連ねている。それらの問いに対する吉田の向き合い方について触れた後、吉田の作品をみていくと、ものから身体へと移行してゆくその過程が世界を包括しようとしていたのではないかと思わせる。それらはもの派という括りでは語られにくい諸相であった。

高円寺の天ぷら屋を待っている間に坂口恭平「躁鬱大学―気分の波で悩んでいるのは、あなただけではありません―」読了。4人以上の飲み会で逃げることは参考になった。単純にコミュ症なんだろう。

Ongoingの「矢野憩啓 + 堺大輝 「風の裏側」」もみた。人物画というと重々しいイメージがなんとなくあるけれど、軽やかな筆致と題材の扱い方がそうさせない。個展にみえる2人展となっている(いい意味で)。また、家屋の隅々に設置する展示方法は、みやすい展示とは異なる距離感を持っていた。タイトルは小説から引用されているらしく、それも読んでみたい。

20240917

「虎に翼」第21週を見る。轟と山田の関係は、写真家、ロバート・メイプルソープとミュージシャン、パティ・スミスの同居みたいなものか。いや違うか。また、最後の回で星のどかが読んでいた雑誌、国際美術を検索してみたりした。探してみてもなかなかみつからない。美術において国際という言葉が用いられたのはいつ頃なのだろう、と思う。

ラジオ屋さんごっこの坪内回も聴いた。6年前の回なので随分前。坪内さんは学部の同級生でまったく関わりなかったけれど、元気にしているのかな。彼の言葉でなぜか覚えているのは、確か一年の時に行われた授業のときのこと。作品のプレゼンをする授業で彼は、人間の三代欲求の限界みたいなのをコラージュに表現していた。そこで、彼は限界みたいな所のときに本能的な人間の行動が出るきがしていて、そのときに欲求を満たすために行う行為がいいときある。お腹めちゃくちゃ空いたときに食べるとか、ということを話していた筈。

ステーションギャラリーのフォロン展をみた。フォロンが描く水彩のグラデーションに空気感を感じる。その後、エルメスの内藤礼もみた。エルメスの壁面は光が透過する作りとなっており、その仕組みを用いたとても小さな鏡の作品がある。みんながそれを探しているのも内藤礼の作品となっており、探す魅力、という位置付けになっていた。それから、映画、ぼくのお日さまもみる。光の粒子で作られる映画はひさびさかもしれない。

20240923

退勤後にカレーを食べに行く。少し涼しくなって、辛いものが食べたくなった。カレー屋の近くの中華である雑誌の編集長をみかけ、僕もポリタスみてます、といいそうになる。

カレーを食べ、eとlがいるシーシャに向かった。eに昔の恋人の愚痴とか一番ダメだお前も言われたくないだろ、と言われる。反省した。

20240926

お昼に勤務先の近くでカレーを食べる。2階に店があり、従業員が待っている間上から見ていた。7人くらいの並びがあっという間に店の中に吸収され、カウンターでタンドリーチキンとカレーを食べる。辛口で辛い。早く食べなければならないスタンドの緊張感。嫌いじゃない。完食後に店を出たらカレーが売り切れており、店じまいを進めていた。午後は会議でプレゼンをする。

20240928

アフター6ジャンクションの「ナミビアの砂漠」回を聴いた。宇多丸が「ナミビアの砂漠」のパンフレットに掲載された森直人の映画解説について、映画史とコネクトした批評を書いており、毎週慌てて一夜漬けしたんじゃ追いつかない世界がある。と話していた。美術史とコネクトした批評、というものを最近みていないかもしれない。

「新宿野戦病院」8話をみた。コンカフェのストーカーを追跡するために病院に勤務する男たちがそのコンカフェに向かう。その作戦会議を男たちは病院で行っていた。そこで経理の白木を演じる高畑淳子が、気色悪い、生産性もない!と叱責する。叱責された男たちはコンカフェに向かう。そこには白木の旦那がいた。そして病院で旦那が白木に叱責される。また、旦那はアダルトサイトの詐欺に引っかかり、40万円使ってしまったらしく、白木のセックスレスが発覚。女性用風俗を白木は同僚に勧められ、みんなでパソコン向かって盛り上がる。男たちはそれを苦い目つきで見守っていた。そこで塚地演じるしのぶが、あんたたち、こういうことやっているのよ!と話していた。生産性という言葉をここまでコミカルに描けるのかと思う。さらに、ストーカーの男がビルに放火。実際にあった事件らしいがここでも男性性のわるさ、みたいなもんを感じてしまう。性愛的なものと新宿の地域性、京アニ問題でのフェミサイドも扱うとは。ここまでよく詰め込めるなと。

20240930

飯田朔「「おりる」思想 無駄にしんどい世の中だから」読了。別々の本屋で立ち読みして読み終わる。

何人かの前職の人と新宿で黒沢清の「Cloud」をみた。見る側のリズムがくるうような作りとなっており、チューニングする間もなく、こっちが可笑しくなってくる。