或る朝ウォーキングから帰ってきたら、インターホンの真下に巨大なカメムシがいた。
家の外壁にたまに張り付いてる黒っぽいカメムシだった。「そこにいてもいいけど絶対に入ってくるなよ」と念押ししてドアを開けると、風が生じたからか、奴は触角を動かしはじめ、90度身体の向きを変えた。勘が鋭すぎる。臭いを放たれたり、飛ばれたらおしまいだ。家に入ってくるかもしれない。刺激しないようにスローで動き、慎重に中に入った。ウォーキングをするよりも疲れた。
私はカメムシがトラウマだ。奴との因縁は、私が高校生の時まで遡る。或る夜、パジャマに着替えてからなんとなくずっと青臭くて、寝る前に気になってパジャマを脱いだら襟の内側に巨大なカメムシが潜んでいて雄叫びを上げたことがある。あれから十年以上経っているのに、カメムシを見ると未だにこの「パジャマの襟元クソデカカメムシ事件」を思い出してしまう……
先日も、外干しした洗濯物をすごい勢いではたいて虫がいないか目視してから取り込んだのに——奴はいた。私は超絶ズボラなので、洗濯物を取り込んだら布団の上にほっぽり出して気が向いた時に畳む。その日は眠くなって洗濯物の横に寝転がった。うとうとしていると、目の前の洗濯物の山の頂上でなにかが動いた気がした。咄嗟に顔を上げると、奴がのそのそとバスタオルの斜面を降りていた。私の顔の作画は楳図かずお作品に出てくる登場人物が叫ぶ時のものになった。高速で寝返りを打ちまくって距離を置き、起き上がり、台所まで走り、ジップロックの袋を片手に戻り、奴を捕獲し、外に逃した。この時ばかりはさすがの私も俊敏なデブだった。
カメムシで春を感じたくなかったが、春は虫が多い。
昨日は、服薬時に上を向いたら天井に細長い小さな虫がいた。カメムシの件から日が経っていないので一瞬ビビり散らかしてしまったが、冷静に薬を飲んだあと、虫取り網——アラサー独身女の家になぜ虫取り網があるのかというと、Gが出た時や入り込んだ虫を捕獲するためだ——で捕まえたところ、緑色の芋虫だった。どこから入ったのかわからないが、またも洗濯物についていたのかもしれない。
いつもならティッシュにくるんでそのまま外に行って草むらに逃してやるのだが、その日は雨で、肌寒く、このまま外に出すのもなんだか可哀想なので、雨が止むまで置いてやることにした。以前、大雨の中坂道をのろのろと進む甲虫の小さな幼虫を見て居た堪れなくなって近くの花壇まで運んだことがあり、ついそれを思い出してしまったのだ。
プラスチックのカップに入れて、排水口のネットを被せた。モンシロチョウの幼虫かと思っていたが、自信がない。毒があったらまずいので、アップロードした写真から昆虫の名前がわかるアプリを使って調べたところ、無毒な蛾の幼虫だった。日本語対応のアプリなのに翻訳がされていない部分もあって肝心の名前が英語表記のままでよくわからなかったが、成虫の姿は灰色の蛾だった。
芋虫に留守番をさせて仕事に行き、帰宅すると芋虫はカップの中でフンをたくさんしていた。元気そうだった。雨が止んでいたので、生い茂る草むらに逃した。芋虫はティッシュから石に移ると、身体を伸縮させてすごい速さでよじ登っていった。自然界を生き抜く昆虫の中でも、幼虫はハエやハチに寄生されることが多いと聞くが、元気に育ってほしい。
翌日、買い物に行こうと外に出たところ、ドアの前に灰色の幅広の翅を持つ平べったい蛾がいた。廊下の色と同化していて、踏み潰されたら可哀想なので、鍵でつついたら端っこに飛んでいったのでそのまま出掛けたが、帰宅したらまたドアの前に戻っていた。
「そこにいたら死ぬぞ」と話しかけながら外したマスクに乗せ、手摺りから放ってやろうと思ったが、蛾は羽ばたくと私の胸元に止まった。服の裾を摘んでパタパタさせてみた。驚いて射出されたガンダムのように遠くへ飛んで行ってほしかったが、蛾は動かない。よく見ると、身体がもふもふしていて、可愛い顔をしている。名前のわからない蛾に恐る恐る指を近付けると指先にしがみついてきた。途端に脳内でナウシカ・レクイエムが流れ出した。あいにく私の肩にはテトはいない。提げた特売の長ネギがはみ出た買い物袋しかない。虫によっては「怖がらなくていいの。私は敵じゃないわ」と優しく言えない時もあるが、「森へおかえり」くらいは言える。指を振ってみると、蛾は私の指先から飛び立ち、不安定な軌道を描いて飛んで行った。
カメムシに発狂したり、蛾に縁のある二日間だった。ああ、春なのだなあとしみじみ思った。