反射的に会話を返してしまう。自分の思いを口に出せない。あるいは、自分の考えばかりを伝えすぎて、相手から聞きたい話を聞けていない。
年末、アサーションの本を読み直した。アグレッシブ(攻撃的)でもなく、ノンアサーティブ(非主張タイプ)ではなく、アサーティブな状態(健全に相互主張できている状態)をつくるというもの。
例えば、イヤホンが音漏れしている人がカフェにいるとする。
何も言わずにひたすらイライラするのがノンアサーティブ、「うるさい!!」と突然怒鳴るのがアグレッシブ。
アサーションとは、「あなたは音漏れしているようで、私はうるさいと感じている。音を少し下げてくれないか」と主張する、あるいは「言わないで我慢する自分を選択する」ことだ。
「私は」と入れることで、言葉の意味自体はそう違いはなくても、相手に与える印象と言うものは大きく変わる。
ところが、アサーションを意識することは、相手に与える印象だけではなくて、自分のコミュニケーションへの内的な持ちようにも影響を与えるのではないか、とここ数日アサーションを意識するようになって感じるようになったことだ。
出力(口に出す以前の)として「私はこう思っている、その上で、あなたにはこうしてほしい」と考えることは、今現実に起きていること、あるいは、自分と社会の摩擦に対して、自然と自他の境界線を引くことになる。そして、相手に求める行為と選択し、行為化・言語化する行為が必然と伴う。
これによる外的な影響と言うものはもちろんある。例えばそれによってコミニケーションが円滑になったり、適切に物事を伝えられるようになる。
しかし、内的な影響も少なからずあるように思うようになった。
自他、自他の線引きを引くことは、普段は曖昧になっていると言い換えることができるだろう。正体不明な相手とのコミュニケーションが少なければ、自分が考えていることが全ての認識になり、「他者も同じように考えている」という感覚は抜けがちになる。
そうなることで、自分の思い通りにしたい、あるいは、自分はこう考えているのに現実はこうなっていない、自分はこうしたいと思ったのにそうならなかった、自分の思ってもいないことが起こり不快に感じる、そんな現象が起きたときに、それがストレス、心の痛みや不快感、漠然とした悩みにつながってくる。
しかし、これがアサーションによって、結果的に自他の境界線が引かれるとしたら、他人が思い通りにならない事は当たり前の感覚が、出力として必然生じることになる。
そうすることで、そこから生まれた不快感というものが、ある種「当然と言うふうに」受け止められるようになり、不快感が和らぐということに気がついた。
「他人は思い通りにならないのは当たり前」「世の中は自分の思い通りにならない」「相手の気持ちに立ってみる」と言うのは、言葉で説明するのは簡単だが、それを自覚して出力するのはなかなか難しいことだ。
しかし、私と他人の線引きを強調して行うことで、それを実行的に実現できることに気がついたというのが今日の出来事。