今日、『ライティングの哲学』を再読した。「書かない悩みから抜け出す」には、書かないで書く方法と場所が必要だと書いてあった。
『ライティングの哲学』では、中断せずに書き切ることが大事・欠落も重複も厭わず、まったく満足のいくものではないが、今ここで、書ききることが大事と紹介されていた。
書くきっかけから書き切る一つの手法として、「感情的なトリガーをきっかけにいったん書き切って、そこから怒りや負の感情を下げ落としていくのが良い」とようなことも書かれていた。
私も、推敲も大してせず、構成案も考えず、デリバリーも考えず、ただ書き終えること、なによりも書き始めることを大事に、このインターネットを始めて続けていきたいと思っている。
書いているうちに、「これはどうだったっけ?」と調べたり、「これは書かない方がいいかな」と心配したり、「この表現はこう変えたほうが面白いかも」と編集したり、考え始めると書くことは中断してしまう。
書き切るのに大事なのは、そうしたリサーチや修正、構成、デリバリーは後回しにして、わからない事はわからない部分として後回しにてしまうことだそうだ。
もちろん、そうすることで、情報としての質が落ちたり、問題を引き起こすようなことも起こり得るだろう。
かといって、完全にクローズな場所で書き切るには、あまりに虚しい気持ちになる。誰かが見ていることというのが、少なからず書き味に影響してくるし、良い塩梅の配慮も必要だ。完全なオナニーでもいけないのだ。
書かないで書くには、適切な場所も必要な理由がそこにある。
昔は、Twitterがそうした場所だった。現在のTwitterは、規範意識や配慮が必要な場所になってしまったと、この本では触れられている。
こういった息苦しさから、発信できなくなり、書く場所やモチベーションが徐々に失われていくということは起こっていそうだ。noteは当初そういった受け皿になってくれていたが、いまはもう少しビジネスライクというかフォーマルな場所になっている。個人的にはもっとこじんまりとして、閉じた場所だと気が楽だ。
さて、この静かなインターネットが思い浮かんだ。
実は、私がしずかなインターネットを更新していることは、一度だけリプで紹介したくらいで、特に宣伝していない。よほどマニアックに私の動向を見ている人か、私が他のしずかなインターネットにコメントしたときに、そこからたどってきてくれるかと言うパターンしかない。
陸の孤島なのだから、それを見に来る人はほとんどいない。かといって、全くの鎖国ではないので、私にとって多少の人の目を意識する場所になっている。
昔、私は、Twitterとnoteとリアルな発言とを「アイデアのスパイラル」として整理していた。
一見同じことを言っているようでも、場所を変えて考えの発信を繰り返すことで、構造化されたり、フィードバックを得たり、添削したり膨らましたりといった変化が起こる。思考をアップデートしていくというような試みを行っていた。
はたして、かつてのTwitterの代わりを、このしずかなインターネットが担ってくれるだろうか。