文学フリマ広島8発行の短編小説集「どうにかベッドでねむりたい」より、「インドカレー記念日(仮)」を本文サンプルとして公開しました。
明日別れる恋人から、真夜中にインドカレー屋のURLが送られてきて、目が冴えてしまった大学生のお話です。
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インドカレー記念日(仮)
午後十一時半。ベッドで横になりながら、特に用もなくカメラロールをスクロールしていると、画面上部にメッセージバナーが表示された。
【遥香:明日、駅前のインドカレー屋さんで待ち合わせしない?】
……明日、駅前のインドカレー屋さんで、待ち合わせしない……?
遥香の提案はいつも唐突だ。意図を理解するより早くバナーが消えてしまって、それでも俺の脳裏にはインドカレー屋という見慣れない文字が焼きついた。普段ならこの時間は既に眠っていることも多く、たとえ起きていても未読のまま明日に返事を回してしまうこともある。とはいえ流石にこの内容の返事を明日まで持ち越すことはできなくて、恐る恐るメッセージアプリを立ち上げる。
遥香からのメッセージを再確認すれば、インドカレー屋のURLと、クーポンチラシを撮影した写真が送られていた。自宅のプリンターで印刷したような解像度の粗いチラシには見覚えがあった。大学の最寄り駅でたまに店員が配っているチラシだ。田舎から出てきた俺にとって、インド人の店員(ネパール人かもしれなかった)がチラシを配る姿は珍しいものだった。新入生の頃は断りづらくて受け取っていたけれど、最近は会釈で断っている。大学に入って四年、一度も行かなかったのだから、今後も行くことはないだろうと勝手に思っていた。
URLの綴りを睨みつけて、怪しげなサイトではないことを確認してからページを開いた。思ったよりちゃんとした作りだったことに安堵して、メニューと書かれたカレーアイコンをタップする。当たり前だが、カレーばかりが並んでいて目が滑る。なんだろう、めちゃくちゃ緑のやつ。ほうれん草……?
どのメニューにも『ナンおかわり無料』の文言が添えられていて、このご時世なのにすごいなと感動を覚えた。同時に、俺はささやかなショックを受けていた。俺は遥香がインドカレーを好きだと聞いたことがなかった。まったくの初耳だった。学食やショッピングモールで食事をした時も、インドカレーどころかカレーを食べている姿を見たことがない。俺の家で何度か料理をしてくれたこともあったけれど、大体がSNSで見かけた鍋のレシピだとかで、カレーを作ってもらった記憶はなかった。そもそも遥香に辛いものが好きなイメージもない。嫌いではないかもしれないけれど、好きだと聞いたことはなかった。
あまりにも遥香とインドカレーのイメージが結びつかなくて、ホームページをくまなく眺める。たまたま気になったのだろうか。それとも俺の知らないだけで、通い詰めていたのだろうか。
遥香からのメッセージに対する答えは限られている。「いいよ」と返すか、別の案を提案するかの二択だ。二択のはずだった。
――この店、行ったことあるの?
質問に質問で返すのは良くないと思いながらも、気づけば送信ボタンを押していた。遥香の欲しかった答えではないことは分かっている。俺だってこんなことを聞くつもりなかった。
明日、遥香と俺は、俺の部屋で別れ話をする予定だった。俺は誰かと付き合うことが初めてで、だから別れることも初めてだったのだけど、なんというか別れる時ってもっとこう、お互い顔も見たくないほど嫌いになるだとか、だんだん会わなくなって気づいたら音信不通だとか、なんとなくそういうイメージを持っていたので、遥香から『別れ話をしよう』と切り出された時には正直とても驚いた。たしかに遥香とは同じゼミだったし、急に会わなくなるとかは難しかっただろうけど、あと一か月待って卒業さえすれば、お互い別々の生活が始まって、気づいた時には自然消滅だってできたかもしれないのに。遥香はきっとその一か月を待つことができなかった。
別れ話をする場所はどこでも構わなかったが、置きっぱなしにしているシャンプーとトリートメントを取りに行きたいという遥香の希望で、俺の家になったはずだった。もしインドカレー屋で別れ話をするとして、遥香が取りに来る予定だったシャンプーとトリートメントを、俺は店まで持って行くことになるんだろうか。そう思うと気が重かった。服や化粧水なんかは、俺が部屋のものを減らし始めたタイミングで既に回収したようだったが、浴室の中までは忘れていたらしい。こちらで処分していいか聞いた時に『高かったから絶対に捨てないで』と言われていたので、よほど大事なものなんだろう。
【遥香:あれ。優斗、起きてるの?】
そんなことを考えていると、再び画面の上部にメッセージバナーが表示された。質問に質問で返した俺に、さらに質問を重ねてくる。起きてるよ。一言そう返せば、画面いっぱいに遥香のアイコンと通話ボタンが表示された。ああ、もうすぐ日を跨いでしまう。夜更かしは得意じゃない。そろそろ寝なければ明日に差し支える。とはいえ今更無視することもできないし、差し支えたところで会うのは遥香なので、仕方がないと通話ボタンをタップする。
『あ、もしもし、優斗?』
「……なに」
『なにって、質問の答えが返ってこないから』
「ああ、うん」
たしかに俺は質問の答えを返していなかったけれど、質問の答えが返ってこなかったのは俺も同じだった。夜中でも遥香の声は普段通り明るくて、鮮明で、悶々とした頭によく響く。
『ていうか珍しいね。この時間に優斗が電話に出るなんて』
「いやまあ……、え、てかなに、なん、インドカレー?」
『ナン?』
「じゃなくて、え、何でインドカレー?」
『嫌?』
「嫌とかじゃなくて、純粋な疑問というか」
なかなか欲しい答えが返ってこなくて、面倒くさい気持ちが勝ってきた。ただでさえ夜は苦手なのに。遥香は一度話し出すと長いので、通話に応えたことをほんの少し後悔した。遥香は俺が夜遅くまで起きるのが苦手だと知っていて、だから用事がなければ夜中に電話をかけてくることはなかった。今日も同じ夜のはずだった。はずだったのに、なんだか寝付けなくて、スマホを触ってしまって、そしたら遥香の名前が表示されて、インドカレーというワードに動揺して、ホームページをくまなく眺めて、遥香から通話がきて、俺は電話に出てしまった。
『優斗? やっぱり眠い?』
「……や、大丈夫」
『そう。えっと、いつもほら、駅前で配られてるでしょ。チラシ。たまたま受け取って、そしたらナンおかわり無料ダヨって言われて、なんか、今時すごいなーって』
「……」
『嫌なら無理しなくていいよ』
「嫌じゃない。行こう」
そう言い切れば、電話口の遥香がほっとしたのが電話越しに伝わってきた。インドカレー屋のナンってめちゃくちゃ大きいイメージがあるけれど、これで小さかったらおもしろいな。
『優斗、せっかくだからいっぱいおかわりしなね』
「そんなに食べられないと思うよ」
『ゆっくり食べればいいよー』
「そういう問題じゃない気がする」
そもそも別れ話をするために会うというのに、ゆっくり食べていいのかな。遥香自身が特に疑問に感じていなさそうだったので、こちらも気にしないことにした。
「遥香」
『うん?』
「あのさ、いっこだけ聞いていい?」
『……なぁに』
「遥香って、インドカレー好きなの?」
『……本当に、なに!?』
遥香はどこか呆れたように、それでいていつも通りの、底抜けに明るい声で笑う。
『食べたことないから分かんないよ。でも、好きになれたらいいなって思う!』
優斗も気に入るといいね。そう言われて思わず頷いた。俺たちは明日、別れ話をする。俺たちは別々の部屋からインドカレー屋に行き、お互い初めてのインドカレーを食べて、もしかしたらナンをおかわりして、そして各々自分の部屋に帰る。シャンプーとトリートメントを受け取った遥香が俺の部屋に立ち寄ることはないし、俺も遥香を誘うことはない。遥香はきっと帰りの電車の中でインドカレーの写真をSNSに投稿する。初めてインドカレーを食べた記念として、味の感想を書いたりもする。そこで俺の話をするかは知らない。俺もきっと知ろうとしない。
『ねえねえ、メニュー見た?』
「うん」
『チーズナン美味しそうすぎない? 明日さ、私普通のナンにするからさ、優斗はチーズナンにしてよ。それで半分こしよ』
「じゃあ遥香は緑のカレーにして。俺はチキンカレーにするから」
『緑のカレー!?』
なにそれちょっと待ってカレーのとこ見るから。電話口の遥香はずっと、ずっと楽しそうだった。俺が今まで出なかった電話の向こうの遥香も、もしかしたら楽しそうだったのかもしれない。
明日俺は、生まれて初めてインドカレー屋に行き、生まれて初めてインドカレーを食べて、生まれて初めて付き合った女性と、生まれて初めて別れる。時刻はすでに日を跨いでいる。俺はスピーカーにして、スマホを枕元に置いた。遥香の『緑ってほうれん草なんだー』という気の抜けた声を聴きながら、すっかり冴えてしまった目を閉じてみる。そして初めて遥香と、このベッドで過ごした夜を思い出す。あの夜もたしか俺たちはこんなくだらない話をして、遥香は笑っていて、やがて訪れた一瞬の静寂の中でキスをした。俺の部屋に行きたいと言ったのは遥香だったけれど、キスをしたのは、ベッドに招いたのは、遥香じゃなくて俺だった。遥香は違う私だよと笑うかもしれないけれど、それでも多分、俺だった。
明日初めてインドカレーを食べる遥香はきっと笑うに違いない。色の違うカレーを並べて、ナンをおかわりして、遥香が好きになるインドカレーのことを俺も好きになりたかった。
了