私が高校二年だった夏、中学二年だった弟が、白い大きな買い物袋に入った子犬を二匹、持って帰ってきました。十月中旬、東北ではもう夜が冷たくなる時期でした。
捨てられていたのはオスとメス一匹ずつで、目も開かずへその緒も付いたままの、本当に生まれたばかりな子犬でした。
当然ながら父は、こんな小さい犬を育てることはできない、と言います。
弟は泣く泣く袋を元の畑に返しに行き、私も、きっとこの子犬たちは死んでしまうんだろうと思い、ひどく悲しい気分になったのでした。
次の日、私が高校の帰り道、例の畑を通り過ぎようとした時です。
現在は非公開にしている短編の中では「ぴぃぴぃ」と描写しましたが、そんなものじゃありませんでした。何かのアラーム、もしくは救急車のサイレン、そういったものを連想させる音でした。
最初、子犬の声だとは思わなかったくらいです。
つい自転車を止め、畑に分け入り、白い袋を目にして、私は昨日のことを思い出しました。
東北の秋の寒空をこの子たちは生き延びたのだなぁと。そう思ったら、畏怖のような感情……野生のものたちの生に対する執念を目にして感動した、と言いますか。
ひと晩を生き抜いた子犬たちなら、親犬なしでも生き延びるだろう。そんな確信が覚悟を決めさせ、私は二匹を家に連れ帰ることにしました。
夕方くらいまで、ペットボトルにお湯を入れて温める工夫をしたり、牛乳を吸わせてみたり(これは良くないと後から知りました)、高校生なりにあれこれしてみつつ、弟と一緒に父を説得。
育てる資金を自分たちで出す、きちんと面倒を見る、大きくなったら飼い主を探す。……そんな約束のもとに、私と弟の子犬育てが始まったわけです。
歳上の友人に動物病院の看護師さんがいたので、犬用ミルクや哺乳瓶、離乳食などを、いろいろ教えてもらいつつ。わずかな貯金も使い果たし、子犬の夜泣きで私も半泣きになりつつも、二匹は生き延びたのでした。
動物文学においては、「ハッピーエンドはない」と言われます。
動物の寿命は短く、野生に生きていれば寿命をまっとうできる例はまずあり得ない。
ペットであっても同じことで、彼らが「幸せに生きて死んでいったか」を私たちの側が知ることはできません。
娘はともかく、息子は里親にも恵まれず。
結局は、我が家で二匹を養うことになりました。
父も母も祖母も私も妹も弟も、いつでも優しくできたわけではないけれど、それでも精一杯愛して、養って、見送ったと思っています。
それでもやっぱり、時々苛まれる後悔だってあるのです。
けれど、あの秋の日に二匹を連れ帰り、育てることを決めたのは、間違いなく英断だったと思っています。
想い出は、時が経つにつれ色あせて風化していきますが、物語にしてしまえば消えることはなくなる。
だから私は小説という形を選び、物語を書き続けているのかもしれません。