母がボヤいていた。
「◯◯さんと買い物行ってランチしたら◯◯さんは自慢ばっかり。息子がいるって良いわよ。車でどこにでも連れて行ってくれるからって、当てつけみたいに言ってきて」
ウチは娘1人の一人っ子で、娘というのはつまり私の事である。私はペーパードライバーで、その◯◯さんが言葉の裏で言いたいのは「お宅はペーパードライバーの娘さん1人でしょう。だから自分で運転しなきゃいけないのね。かわいそう。私は運転なんかしなくても息子が車で連れて行ってくれるのよ」と言うことらしい。その前後の文脈も聞いてその理論にはまぁ納得する。
とはいえ、そちらの息子さんは家事は一切やらないし、言いたければ「うちの娘はフルタイムで働いてるけど休みの日にあちこち掃除してくれるのよ」とでも言えば良いんじゃないだろうか。
とはいえ、母が怒っている理由はそういう事ではない。事ある毎にマウントを取ろうとしてくるので話をしていて気分が悪いしずっと我慢しているのが気持ち的に辛いそうだ。そりゃそうだ。マウントを取ってくる人は何処にでもいて、いちいち相手にすると疲れるし怒りたくなる気持ちはわかる。なんでそんな事を言うんだろねと母と話し、そのときはそこで話は終わってしまった。
◯◯さんは何故そうしないといられないのだろうか。
仮説を立ててみた。
仮説1) 母が普通に嫌われているか、◯◯さんの仮想敵になっている
嫌われている可能性は低いが、無くはない。ストレスのはけ口になっている可能性は普通にある。
仮説2) ◯◯さん自身に自信や自己肯定感が低い
これはありうる。主婦としてあまり外に出る方でも無い◯◯さんは、自分が幸せかどうかわからなくなってしまっているのではないか。メディアで垂れ流される他のお家の苦労話で、「私はまだマシだから幸せである」のような思考を繰り返してしまい、自身でも気が付かないうちに幸せの基準が他人になってしまっていそうだ。
幸せの基準が他人だと、他人の幸せが憎くなるし、自分の方が恵まれていないと幸せであるという認定書を持てなくなってしまう。
勝ち負けに拘る人もそうなのだが、勝つということは、相手を負けさせる事に他ならない。他人より幸せだから私は幸せと思う事は、つまり相手は自分より不幸でなくてはならない。これは危険な思想だしコミュニーケーションとしては不幸しか産まない。
さてさて◯◯さんはどうだろう。おそらくは仮説2かなと思うのだけれども。
できる限り、人がどうあるかではなくて自分が今何をしいるかで幸せを決めたい。