プログラムを書いて実行している時、ふとコンソールをずっと眺めて処理が終わるのを今か今かと待ってしまう時がある。見つめる鍋は煮えないと分かっていても、早く終わってくれと思う気持ちが先立って、そんな非合理的な行動をさせるんだろう。
プログラムを書くのが好きか、と聞かれると「そうでもない」と思う。画面を作ってる時よりは、サーバーサイドの方が好きだ、とか、書き方にバリエーションのない言語の方が好きだ、とかそういう好みはあるけれども、根本的に私は別にプログラムを書くのが好きでエンジニアになったわけではなかったし、今もそこまでプログラム自体に関して関心があるわけではない。
と、書くとどうも技術に対して頓着がない人、無関心な人のように見られることもあるのだけれど、まあそれは仕方のないことと割り切っている。必要に応じて必要な知識が獲得できればいいし、知識に接していれば自然に好奇心の向くままに色々調べて詳しくなる。けれど、それは好奇心のなせる技であるし、私の根本的な気質を表現したものでは確かにないから、まあ根本的には外性的に興味を生み出されている私は”反応的な”スタンスなのである。”能動的”では決してないと思う。
昔はどうだったかといえば、もう少し”能動的”だったようにも思うけれど、でもそれは技術が好きだからではなかったと(いいか悪いかわからんが)自信をもって言える。プログラムが書けないと自分のやりたいことに近づいていけない、必要な仕事を終えられない、自分のプライドが許さない、などなど技術とは全く違うところで、執着して技術の知識を獲得してきてばかりいる。今だってそうだし、今後もきっとそうだと思う。根本的にはさほど技術に興味はないのだ。
でも、技術は手段か?と言われると半分しかYesといえない自分もいる。よくある「誰かの課題を解決するための手段として技術を使う」という表現はとても耳障りがいいけれど、私はこのスタンスはとっていない。確かに誰かの課題は解決したい、技術も手段として使う、けれど技術を使うことにさほど誇りを持っていない自分もいるのである。「なんでもいいから誰かの課題を、できる限り多く解決したい」という方が私の気持ちとは合っている。
技術は私にとってなんなのか、はいまだによくわからないけれど、一番身近に合って自分の表現方法の一つになっていて、いわゆる勝つための手段の一つには確かになっている。でもそれは数ある手段の中の一つであって、特別なんかじゃ全然ない。少なくとも自分の中では。でも、状況と場面によっては、技術が最も良い手段になり得ることもあるのだとも思っている。
技術をやっていて、一番得られる恩恵や経験は何か、といえば問題を解く能力が高まることではないかと思うのだ。問題を発見する能力ではなく、とにかく解くという能力がすこぶる高まる。問題が曖昧であればあるほど良い。前提の条件が曖昧であればあるほど能力がきっと鍛えられる。まるで、受験の時に数学を勉強した時のように、私はただただ毎日毎日問題集や新しい例題を解いているのだと思うと、なんだがずっと気楽に毎日を過ごせるような気がしている。
ただ、ずっと問題を解いているばっかりで良いのか?と思う瞬間がある。それもしばしば。得られた知見の活用ばかりに目を向けて、問題を深掘りして、ただただ問題を解くだけの機械的な人間になってしまっているのではないか、とふと思うのだ。問題が解けたり、解いている瞬間は確かに気持ちがいいし、道筋が見えた時にはアハ体験があるけれど、そこに中毒的なものがあるのも事実で、自分を見失わないようにしないといけない。
解くべき課題はどこからもたらされたのか、なぜその課題は解くべきであるのか、なぜその課題は課題と言えるのか。そのような問いを考えなくなってしまった瞬間に、いつも私は機械仕掛けになってしまう。そうなってはいけない。もっと課題もみつめて、もっと発散的にも考えて、と毎日意識する。でも、なかなかいつもは難しい。職業的な圧力というのもきっとあるし、私自身の思考の傾向も影響しているだろう。
でも、課題を見つめることはやめてはいけない。解く前に課題を見つめないと、ただ解いてるだけじゃ半分しか課題を楽しめていないし、人間らしくない。そう思いながら今日も課題を解きたいと思った。