「ヘイル・メアリー」とは、アメリカン・フットボールの用語で敗色濃厚のチームが一か八かで放つロング・パスのことだそうだ。さらにこの言葉はラテン語の「アヴェ・マリア」に由来する、カトリックにおけるキリストの母マリアに捧げる祈りでもある。

その名を冠した『プロジェクト・ヘイル・メアリー』は、人類の最後の望みを賭けてこの宇宙に放った一投といえる。同時に、アンディ・ウィアーが世に放った祈りでもある。
この作品、様々な物語としての解釈ができると思う——ある人は「この物語は友情の物語だ」というかもしれないし、別の人は「自己犠牲の物語だ」というかもしれないし、また別の人は「『プロジェクトX』のような仕事人の話である」というかもしれない。どれも正しい。
どれも正しいが、充分でないと思う。この記事では自分なりの解釈を書いておこうと思う。
この記事は映画『プロジェクト・ヘイル・メアリー』、ならびに原作小説のネタバレを多く含みます。
まだ観てない人、なぜ劇場に行かない、質問?
サバイバルSFとしての表層
この作品の最大の魅力は、原作小説の訳者解説を見るのが一番だと思う。
できれば本書は、内容についてなんの事前情報もなしに読んでいただくのがいちばんいい。というのは、冒頭で目覚めた主人公(本書の語り手でもある)は、自分が誰で、どこに、なぜいるかがわからず、そこからさまざまな科学的手段やふとしたきっかけを通して状況を解明していく──その過程の面白さが、とくに上巻前半の読みどころであるからだ。
主人公は記憶を失い、自分の名前も、ここがどこかも、なぜ自分がここにいるのかも分からない状態で目覚める。そして読者もまた、何も知らない。主人公が手がかりを掴むたびに、読者も同時に世界を理解していく。
この「主人公と読者が完全に同期している」という構造こそが、この作品の最大の仕掛けである。
主人公と読者が同期していると感じられるがゆえに、中盤から後半にかけて行われる数々の選択が他人事ではなくなる。物語全体に臨場感を生み出す。
映画版はかなりロッキーとの邂逅に時間を割いていて、その分この試行錯誤のシーンがかなり端折られてしまっている(映画を2時間半程度に抑えるためには仕方ない)が、それでもこのエッセンスは多分に感じられる。現実のゴールデンレコードをオマージュしたと思われる金のプレートが飾られているシーンが追加されていて、「人類はこれで死ぬかもしれないが、せめて墓標だけでも宇宙に遺そう」という示唆を感じられる。良い改変だ。

注目したいのはグレースが行っている「問題→仮説→実験→解決」というループだ。これは単に物語の仕掛けという方法論に留まらず、科学における基本的な考え方とリンクしている。グレースは科学者として、どんなときであってもこの原則を崩さない。世界を科学で解釈し続けるからこそ、大きなミッションをなすことができるのである。
たとえ記憶を無くしたとしても、グレースは科学に対する基本的な態度を忘れることはなかった。科学はいついかなる時も人類に対して平等に接してくれるのである。
確かにここは最高の魅力であるが、それはほんの氷山の一角に過ぎない。この作品の真髄はその下層にある。
「国際協力」は現実に起こり得ない?
この作品は宇宙でグレースが活躍する「宇宙パート」の他に、回想シーンとしてヘイル・メアリー計画を実行に移す前段階が描かれる「地球パート」が存在する。
この地球パートでは、ヘイル・メアリー計画のために世界各国がリソースを惜しみなく投下している。サハラ砂漠一帯をアストロファージの巨大生産場に変えたり、南極の氷を核で吹き飛ばしてメタンガスを放出させ、寒冷化を少しでも抑えようと画策するシーンは、映画版には無いが印象的である。

だが…そんなこと現実に起こり得るのだろうか?
少なくとも今の世界情勢を見れば難しいことは明らかだ。ロシアによるウクライナ侵攻、イスラエル・イランをはじめとする中東情勢、様々な国に武力介入を仕掛けるアメリカ…。
仮に今同じようにヘイル・メアリー号が必要となったとして、世界は団結できるだろうか。「どの国が主導権を得るか」「宇宙飛行士をどの国の人間にするか」などの不毛な争いが行われるに違いない。
では、アンディ・ウィアーは荒唐無稽な話を書いたのだろうか?僕はそうは思わない。映画『オデッセイ』(原作: 『火星の人』)でもそうだが、彼の作風は一貫して「冷笑的な現実主義を吹き飛ばすような楽観性」である。少なくとも彼は、人類にはまだ希望があると常に信じている。
これはウィアーによるメッセージなのだと思う。僕たちは科学という同じ旗の下で一つになれる。そして一つになれたとき、僕らは想像もできなかったような遠くまで行けるのだ、と。
作中ではストラットがその役割を担っている。ストラットは人類の危機に対して各国が利己的に動く未来をよく分かっている。映画版ではストラットがカラオケで『Sign of the Times』を歌うが、そこにこんな一節がある。
We never learn, we been here before
Why are we always stuck and running from
歴史学者であったストラットは過去の失敗を知っている。そしてこれからその失敗が起こることも。彼女は現実を悲観しているからこそ、現状を楽観視することで世界を繋ぎ止めているともとれる。実のところ彼女が「この計画は上手く行く」と考えているのは、「他の方法では対立によって上手くいかない」という考えの裏返しなのだろう。
ストラットは想像を絶するような強権であらゆることを遂行するが、それは単に彼女が任務に対して手段を選ばないだけでなく、世界が「科学だけがこの状況を打破しうる」と判断したからに他ならない。彼らは科学を通じてほんのわずか時間ではあるが相互理解を獲得したのである。
この「科学と相互理解」の関係性は作中にもう1つ出てくる。それがグレースが出会うエイリアン、ロッキーとの関係である。
ロッキーとの出会い、そして相互理解
ロッキーとの出会いは作中における大きな山場の1つだ。
SFにおいて、地球外知的生命体とのファースト・コンタクトは恐怖を伴うものが多い。映画『メッセージ』(原作: 『あなたの人生の物語』)などはその様子をよく描いている。ここでの恐怖というのは、相手が何を考えているか分からない、もしかしたらこちらに敵意があって攻撃してくるかもしれない、という恐れから来ている。

だが、彼らは「科学」の旗の下で交流していく。はじめは数字といった単純な概念から。そこから、時間や重さといった物理量、化学組成、もっと複雑な科学へと広げていく。やがてそれはお互いの生態、そしてそれに裏打ちされる文化や習慣にまで広がっていき、やがてタウ・セチにやってきた理由は同じであったことに気づく。科学は大きさも構成物質も全く違う2人を友人として繋げたのだ。
無論、これはグレースとロッキーが良い人間と良いエリディアンであったことが前提としてあるのは言うまでもない。ただ、ウィアーは性善説にかなり信頼を寄せているように思う。同じ危機に直面し、同じ目的をもった知性生物は、少なくとも理解しあうだけの善性を持っているはずだ、と。
作中で、グレースが宇宙服のヘルメットを外すか迷うシーンがある。
ロッキーは地球の空気の組成を再現してグレースにヘルメットを外すよう求める。しかし、グレースはそれを躊躇する。もし組成が違っていたら?仮に違っていたら、彼は一巻の終わりだ。
でも、彼は最終的にヘルメットを外すことを選択する。それは一歩を踏み出して「ロッキーを信じる」ことを選択したからに他ならない。科学と、それに裏付けられた信頼関係。たった2つのことが、この壮大な物語を強烈に推し進めているのだ。
『プロジェクト・ヘイル・メアリー』は希望の物語である
『プロジェクト・ヘイル・メアリー』は希望の物語である。しかし、それは作中の人物たちにとっての希望ではない。今を生きる、僕らに対する希望。
残念ながら、今の世界は分断が加速する一方である。対立は国外だけにとどまらず、国内であっても排外主義やポピュリズムのような政治思想が台頭し、反対派との対立が続いている。インターネットは表面的に見れば世界中の人々を1つに繋げたが、昨今のエコーチェンバー、フィルターバブル問題に代表されるように、分断の激化に一役買っているようである。
このような現実を目の当たりにすると、「人類は1つになれるわけがない」という冷笑的な態度が跋扈するのは仕方ないように思う。
しかし、アンディ・ウィアーは強烈な楽観主義によってこれを吹き飛ばす。科学は世界を再び繋ぎ合わせ、そして僕らは科学を通じて相互理解を獲得する。そのある種の宗教観にも近い祈りが、『プロジェクト・ヘイル・メアリー』を形成している。世界はそうでないからこそ、そうである未来に希望を見出す。
だから『ヘイル・メアリー』とは、敗色濃厚の中で放たれる最後の一投であると同時に、それでもなお届くと信じて差し出される祈りなのである。