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学園祭実行委員会は狂っていなければならない

hayatosc
·
公開:2025/11/29

理科大の学園祭である理大祭が終わった。

僕は理大祭の実行委員会に在籍しているが、想像を絶するような準備の労力に対し、本祭日の2日間というのはあまりにもあっという間だった。

体はもう満身創痍で、整理日の翌日は20時間以上寝込むほどの疲労だった。これより大きなイベントやプロジェクトでも(それもずっと大きな意思決定を行える立場で)ない限り、これ以上の全力投資はできないだろうと思う。

この労働を時給換算なんてしてはいけない。あまり知られていないだろうけど、本祭期間中は24時間体制。問題が起きたらもちろん全力ダッシュ。むしろ僕らは自腹を切っているのでマイナスだ、なんて事実からも目を背けなければならない。

ふと、「なぜ、理大祭は毎年できているのだろう?」という疑問が浮かんだ。

これほどまでに大変な作業をしておきながら、なんの利益もない。大学側とのやり取りをするのも一苦労で、去年までOKだったことが急に向こうの都合でダメになったりする。

もしコスパよく、タイパよく快適に過ごしたいなら、実行委員会なんてやらずに適当に模擬店でも出して友達と盛り上がりながら他の店を歩き回ったりしていればいい。極めて楽しい時間を作れるだろう。

だが、それでは完成しない。誰かが、この綱渡りを完遂しなければ理大祭は成立しえないのである。ここに「狂気」がある。

理大祭という「祭り」を成立させるには、井桁組に火をつける役が必要である。キャンプファイヤーに炎が無ければ踊りは始まらない。

平穏で秩序のとれた合理的な日常から炎を取り戻すためには、誰かの狂気が不可欠だ。だからこそ、僕らは徒労と非効率の山を薪としてくべるのだ。これは、正気の人間のすることではない。

優れた狂気は感染性がある。祭りの狂気はやがて団体に伝播し、そして来場者や会場そのものに伝播する。ただの段ボールと発泡スチロールの山が、その時だけは「思い出」というワードに置き換わる。

この構造は、たかが学園祭だけの話ではない。もっと普遍的で、巨大な熱狂の渦を作り上げる基盤となる。その最たる例として思い起こされるのが、今年、大盛況のうちに幕を閉じたあの万博だ。夢洲という地に渦巻いていたものは間違いなく「狂気」であった。

万博協会やそれぞれのパビリオンが生み出した「狂気」がやがて会場全体、さらには来場者にまで伝染する。連日の猛暑の中、パビリオンを稼働させ続けたスタッフ、ユーモア溢れるワードで来場者を誘導し続けた警備員たち。合理性だけでは説明できない何かが、そこにはあった。この異常な熱量に染まった屈強な万博市民たちが、大屋根リングというある種の檻から解き放たれ、あちこちの「アフター万博」イベントを食い荒らしているのは今日我々が見ている通りである。

万博とは「狂気」ありきのイベントだったのだろう。でなければイタリア館に7時間も待つなんてありえないし、サーバーエラーを当たり前のように受け流して予約チケットを手に入れる光景が日常になることもなかった。

学園祭も同じである。

狂気がなければ始められない。狂気がなければ人が集まらない。狂気がなければ人を巻き込めない。

現代においてこの「狂気」と呼ぶべきものは、ますます白い目で見られるようになってきている。生成AIが進化し、世の中のあらゆるものが徹底的な合理性を携えて進行していく。全てはデータありきで語られ、非効率な作業はアルゴリズムによって最適化される。あらゆる行動に意味や価値を求められる世界。そこに無駄はなく、一見すれば理想的な現代社会だ。

だが、「コスパ」「タイパ」が正義とされるこの世界において、あえてこれほどの非効率に身を投げること。これは逆説的だが、人類に許された最高の贅沢に他ならない。この贅沢こそが明日の人を動かすのである。

だからこそ、学園祭実行委員会は狂っていなければならない。