寝顔

hayu
·

時間をかけて綺麗な文章を書こうとするといつまで経っても投稿ができないので、勢いで文章を書いてみる。

息子の端正な寝顔を見ていると、ああ、ちゃんと人間だなあ、と感じることがよくある。

普段の仕草は赤ちゃんだけど、ちゃんと口を閉じて仰向けで寝てる姿は大人と大差ないからだと思う。

ちなみに、ああ、ちゃんと人間だなあと思う瞬間は、寝顔を見るときの他にも、

息子名義の郵便物が届いた瞬間も、改めてそういう思いが強まる瞬間だったりする。

スースー、時々ぐぅぐぅといういびき混じりの寝息。

そして隣で寝てる夫と全く同じ寝顔。そんな二人がとても愛おしい。

夜間授乳が終わってベッドに寝かしつけて二人の寝顔を見る瞬間が、ほっとして幸せな時間。

----------

世の中には、我が子を対等な一人の人間として見ることのできない、所有欲・独占欲や子どもに対する価値観の押し付けの強い親が存在する。

今までは、子どもも一人の立派な人間なのにどうしてそうやって見ることができない親がいるのか不思議で仕方なかった。

でも、子育てを始めてみてわかった。きちんと意識してないと、我が子を対等な一人の人間として見ることって、案外難しいのかもしれない。

そもそも、いつ、どのタイミングから対等な一人の人間として認識するものなのか。

初めて言葉を喋ったとき?イヤイヤ期が始まったとき?

いや、赤ちゃんの頃は外から見えにくいだけで、その子の人格や個性はちゃんと生まれたときから備わっている、立派なひとりの人間である、と思わねばならない。本来ならね。

生まれたばかりの赤ちゃんは、親がいないと何にもできない。

ちいさくて儚い、全力で守るべき命。

はじめは自分の意思は「快 or 不快」でしかなく、泣くことでしか伝えられない。そんな赤ちゃんが一人の人間として成長していくのは、毎日のほんの些細な積み重ね。

見えない積み重ねで、今はまだ表面にあらわれていない人格を、ゼロから一緒につくりあげていくのだ。

生まれたその瞬間からずっと地続きで育児をしている親にとっては、まだ何にもできない赤ちゃんが劇的に成長を遂げる瞬間、に立ち会うことはない。

例えば赤ちゃんだった我が子が何かの節目でいきなり「はい!じゃあ今日から一人の人間として対等に扱ってね!よろしく!」と喋り出すわけでもない。

点と点ではなく「線」で子どもを育てている親にとっては、赤ちゃんの頃の我が子の姿を、文字通り「引っ張って」しまうことは簡単なんだろうなと思う。

だからこそ、まだ親が守ってあげないと何にもできない今の時期だとしても、彼はひとりの立派な人間なんだと、今のうちから意識しておかないとと思う。

身長も体重も脳の発達も、日々の育児を通して得られた彼の「成長」は、紛れもなく彼がひとりの人間として生きていくためのものである。

何にもできない赤ちゃんからは見えにくい「ひとりの人間」としての姿を確立していくためのもの。

自分のための育児ではなく、将来の彼のために育児をしている。

今のうちからそういうスタンスでいれば、我が子が将来ひとりの人間として自己主張をしたときに受け入れやすい。

わざわざ、子離れしなきゃ、あくまで親はサポートの立場だと思わなきゃ、といった、いつかは訪れる「切り替え」に、急に直面しなくていい。

ましてや「私がいないと何にもできないくせに」「私の言うことさえ聞いておけばいいのよ」という独占思考にはならないだろう。

----------

つい自分本位の子育てになってしまいそうなとき、

まだ何にもできない赤ちゃんなんだから…と、彼に対して「(あくまで月齢的に何にもできないだけであって)対等な人間である」という意識が薄れてしまいそうなとき、

軌道修正できる母親でありたいと思う。

寝顔を見ながら考えごとをする親は昔から多いと思う。漫画やドラマでもそういうシーン描写が多い気がする。その理由が今こうして何となくわかる。

君は立派なひとりの人間だよ。大切な家族の一員だよ。

良い夢を見てね。