「音楽が僕を傷つける」
この言葉がここ何年も頭の中に滞留している。かつて音楽というのは、生活のそばにあるもので、どこかへ行く動機になったり、あるいは苦手な環境から身を守ってくれる存在だった。駆動装置であり守護者。
それが、すっかり音楽が苦手になってしまった。
理由はいくつもある。ひとつめは敬愛するミュージシャンがこの世からいなくなったこと。ずいぶん前のことだ。
それとは別の話として、いろいろと音楽をやる側になった。音楽をやる、演奏、弾く、歌う、どれも自分にかかる言葉としてはいやだと思う。
やるからには練習しなくてはならない。音源を聞く。譜面を読む。自分で弾き、歌う。うまくできない。一度としてうまくできたことはない。やってよかったと感じるのは打ち上げのビールを飲んだときだけだが、大掃除でも筋トレでも同じ快楽は得られそうだ。神経と身体を酷使してから解放の酒を飲めばいいのだ。
うまくできないなりに、考える。いろんな音楽を耳にする。参考にできないかなと解析の耳で聞く。テレビを見れば歌詞の組み立てを見て、カフェのBGMのリズムに食事の味もよくわからなくなり、ただどうにかならないかと思う。そんな生活を何年も続けていたら、かつては生活の一部になっていたライブにも行きたくなくなってしまった。
もう疲れたんだ。そっとしておいてくれ。音楽が僕を傷つける。もうあの人はどこにもいない。練習音源を聞くだけで必死なんだ。音楽はわかってもわかってもわからなくて、際限がない。リズム、音色、技術、アーティキュレーション、意志、立つこと、身体の運び、おなじAhというのでも、どう息を吐きどう喉を締めるのか。舌はどこに置くのか。指の軽やかさ。なにがよくてなにがわるい。どこへ行きたいのか、なんになりたいのか、なんのために。
楽しいから音楽だっていう奴は雅楽や邦楽にも同じことを言うんだろうな。
ただきっと、自傷行為なんだと思う。音楽は僕を傷つける。時間も金も体力も奪っていく。音楽はどこにも残らない。鳴った次の瞬間には消えている。録音しても残るのは恥と悔恨だけだ。どれだけ傷ついたら、死ねるんだろう。