その音を聞いて分かった。こいつには才能があると。一つ一つの音が耳に響き、心臓に届き、心を震わせる。ただ弾いているだけでなく、その中に感情が乗っていたのだ。それは出来るようで出来ないものだ。他人に感情を音で伝えるのは、想像以上に難しい。それを、家に遊びに来ては俺のピアノを横で聞きたまに弾いていただけの渡沢(わたりざわ)がやってのけたのだ。
――何十年と触れてきた俺と、何か月だけ触れた渡沢の違いは何だ。
「どうだった?」
弾き終わった渡沢は不安と期待を顔に浮かばせていた。俺は反応がすぐに返せなかった。様々な感情が混ざり合う。未だに肌はざわざわと落ち着かず、心臓の鼓動はドクドクと早く鳴っている。そして、腹の底から湧き上がる、黒く醜い感情に襲われていた。
「野々川(ののがわ)?」
「――あっ」
体が冷めていく感覚が走る。何かを言わなければならない。口を開くがただ空気が出ていくだけだ。時間としてはそうかかっていないはずなのに、とても長い時間が経過したように感じる。
「凄い、凄いよ!」
「ありがとう! 野々川のピアノを聞いて、教えてもらったから弾けたんだ」
「そ、そうか。でも、この音はお前の実力だよ。……なあ、本格的に勉強してみないか」
「ん~、でも習う為のお金なんて無いし。それに、僕は趣味で弾くくらいで良いよ!」
「ならその才能を俺にくれ」そう声に出そうになった。奥歯を噛みしめて堪える。必死に笑顔を崩さないようにした。経済的なことは仕方ない。俺だって親の支援がなければこの環境がない。しかし、音楽に触れてきた俺だからこそこの才能を伸ばすことなく世間に出すこともなく埋もれていくのが我慢ならなかった。なぜ、それを持っているのが俺でなくお前なんだ。俺だったらそんな才能を捨てることはしない。鼻の奥がツンと痛む。心臓が痛む。この気持ちをどうしたらいいんだ。
「でも、渡沢。もったいないよ」
渡沢は意味が分からないようで首を傾げる。俺は渇いた喉から言葉を出す。
「……才能があるよ」
俺は、自分が欲しかった言葉を渡沢に言う。
「嬉しいなあ。でも、野々川の方が上手いし、僕はいいよ」
上手いというのは、技術的な所だろう。確かに、そこはまだ俺の方が上なのだろう。でも、問題はそこではない。技術の先にある表現の力が渡沢にはあるのだ。それこそが持っている人間と俺、凡人との違いだ。
「……お前が心底羨ましいよ。渡沢」
「野々川、どうしたんだ」
「俺には、何年かけても技術しかない。そこに、人を惹きつける音を乗せることが出来ない。乗せて弾いても、それが伝わらない。伝わらなければ意味がない! でも、お前は荒削りだが出来ているんだ」
声が震える。ボロボロと涙が零れていく。こんなつもりではなかった。しかし、この嫉妬心が牙を剥き出すのを抑えられなかった。
「趣味だけで弾くなら、もう遊びに来ないでくれ!」
「ご、ごめん。でも僕はそんなつもりじゃ……」
「――悪い。感情的になりすぎた。渡沢、お前が嫌いになったわけじゃない。でも、もう帰ってくれ」
「野々川……」
「あまりに、惨めだ」
渡沢はそれを聞いた後、ただ黙って出ていった。部屋には、窓から零れる太陽の光に照らされたピアノがあるだけだ。大好きなものだ。これが俺という人間が唯一持つものだと思っていた。
「才能には勝てない」
何年も連れ添ったピアノの白鍵を指で撫でる。「あんな音を出せるなんて、俺は知らなかったよ」と語りかける。当たり前だが音が返ってくることはなかった。そして、大切なもう一人の友人を自身の嫉妬心で傷付けたことに気付き、深い後悔に襲われる。しかし、出た言葉や行動はやり直すことが出来ない。
スマホのアプリを開き、謝罪の気持ちを打とうとしたが、それでは誠意が伝わらない。今度学校で会った時に話をさせてくれ。とだけ打つ。「分かった。本当にごめん」とだけ返ってきた。「違う。謝るのは俺の方だ」とだけ返して電源を落とす。俺はピアノを見つめ、何も弾くことなくゆっくりと鍵盤蓋を閉めた。
きっと、完全に弾くことから離れることはない。けれど今までのような情熱はもう向けられないだろう。まるで消えまいと揺れていた火が強い風によって一瞬で消されたように、俺の中の情熱も消えてしまった。
冷たい風が混ざりだした季節、長い時間しがみついていた夢に俺は別れを告げた。
2023年04月01日(土)