▼お気に入り
君のお気に入りの音楽が、今日も僕の中で鳴り止まない。
▼誰よりも
誰よりも優れていたら、私は多くの人を助けられたでしょうか。
誰よりも強い心を持っていたら、私は一人で困難に立ち向かえたでしょうか。
誰よりも美しかったら、もっと自信を持てたでしょうか。
――けれども私が思い描く輝くような人でなくても、貴方は私を選んでくれたと思うと、自分を少し好きになれるのです。
あの人が待つ場所へ向かうだけで私の胸は高鳴る。新しく買ったスカートが、ふわりと笑うように揺れた。
▼10年後の私から届いた手紙
“誰からも好かれる人間がいい。”
ふと、だいぶ昔に使っていたSNSのアカウントを消していなかったことを思い出しログインすると、一番にその言葉が目に飛び込んだ。
短く綴られていたそれは、昔の私が打ち込んだものだった。
鍵をつけて日記代わりにしていたから、これは誰でもない自分自身に向けたものだと分かる。
頭の片隅で、黒く煤けた記憶が這いずってくるのが分かった。私は、深呼吸して思いっきり息を吐き出す。それと一緒に煤がサラサラどこかヘ消えていく様が浮かぶ。
「……誰からもは無理よ」
昔の自分に諭すようにそんな言葉を呟いた。
私は前より少しだけ変わった入力欄に文字を打ち込み、そのままログアウトした。消すのは一旦保留にしておこう。また何年後かの私の意見が気になるから。
「もしかしたら真逆の事言われるかもね」
スマホを机に置いて部屋の窓を開ける。暖かい風が桜の花びらを纏わせながら入ってきた。
――また季節が巡っていく。そして、私の価値観はきっとこれからも変わっていくのだろう。
“案外、みんな自分勝手だよ。だからちょっとでいいから自分を出して生きてみて。”
▼バレンタイン
言葉にするのが俺はどうにも苦手だ。
ドラマに出てくるような奴らみたいにサラッと気の利いた台詞を言えたら、隣を歩く寿々歌が今より安心出来るのは分かっている。だが、それが出来ないからこんなに悩んでいるわけだ。俺は学ランのポケットに手を突っ込む。小さな箱が早くここから出せと言うように手にあたった。言葉が無理ならせめて行動で示せ。と追加で言われているような気もする。
「幸晴、家着く前にこれ――」
「待った!」
「えっ?!」
寿々歌がカバンから袋を取り出す前に俺はそれを止めた。案の定、寿々歌は困惑した顔をしている。
「柄じゃねえのは分かってるけどよ」
「うん?」
「こっちから渡すのもたまには有りだろ」
俺は顔に集まる熱をなんとか無視して寿々歌にポケットにいれていた小さな箱を差し出す。ピンクのリボンでラッピングされたそれに寿々歌が驚きながら「幸晴が買ったの?」と言う。頷くと寿々歌が小さく笑う。それに、「あのなあ、俺がどれだけ恥を忍んで買ったと……」と愚痴をこぼそうと顔を見るとそこにあったのは、自分が想像していたからかうような表情ではなく、何も言わなくても分かるくらい“嬉しい”という気持ちが溢れている表情だった。
「逆チョコかあ! 本当に嬉しいよ。ありがとう、幸晴」
「……おう」
「幸晴大好き! はい、私からもチョコどうぞ!」
「――っ、ああ、サンキュ……」
渡されたの水色のリボンがかけられた袋を受け取り、潰さないようにリュックに入れる。
寿々歌は鼻歌を歌いながらまだ箱を見つめていた。
――これだけでこんなに喜んでくれるなら、バレンタインに俺からチョコを渡すのも悪くはない。
登場人物
小宮 幸晴(こみや ゆきはる)高城 寿々歌(たかしろ すずか)
▼待ってて
※ペットロス中の方がいましたら注意してください。
縁側で新聞を読んでいると、チャカチャカ足音を立ててチビが来る。フサフサと自慢気に尻尾を揺らし、当たり前のように俺の膝に乗ってきた。
「おい、チビ。邪魔だ」
「お父さんったらまた憎まれ口叩く」
花恵が続けて「離れたら離れたで、チビチビ言って探すくせに」と笑いながら言うもんだから、俺は何も言い返せず膝に居るチビを撫でる。チビは心地良いのか目を細めて黙ってそれを受け入れていた。
「また春が来たら桜が見れるぞ」
言葉が分からないはずだが、チビは目を開いてどこか嬉しそうな顔をして俺を見つめた。
チビはいつも俺の傍に居た。小さいからふとした拍子に踏んじまいそうで落ち着かなかった。ろんぐなんちゃらとかいう小洒落た犬種で、無駄に毛並みが良いし、あとは大きい目をしていた。
――また、この生意気な犬と桜を見に行くつもりだった。
あれは朝の散歩をしていた時だ。突然だった。本当に、わけがわからなかった。
パタリとチビが倒れたのだ。俺はチビを抱き上げて直ぐに病院に向かった。心臓がバクバクと動いているのに、やけに周りの音が遠くに聞こえる。
とにかく早く、早く、頼むから、大した事ないと言ってくれ。ただの立ち眩みだと言ってくれ。
犬用のバッグから見えるチビは、浅い呼吸を繰り返すばかりだった。
医師から、心臓の大きさや血が流れていく動きの状態が悪い……そんなようなことを聞かされた。小難しい話を分かるように説明しようとしてくれているのは理解できたが、俺は力なく尋ねた。
「チビは治りますか」
それに医師は言い淀む。俺は腕の中のチビを苦しくないよう抱きしめた。
「死なないでくれ」
情けない声で小さな命にすがりついた。
……それから数日後、チビは居なくなった。家の中に響いていた足音は聞こえないし、膝の上の温もりもない。縁側でぼんやりしていると花恵が隣に座ってきた。
「静かね」
「そうだな」
会話は短いが、その中には俺達にしか分からない重みがあった。
「虹の橋のたもとですって」
葬式を終えた後にもらったパンフレットを見ながら花恵は言う。
「そこでチビが待っててくれてるから、行くときは大好きなおやつを持っていってあげましょうね」
「……そうだな」
「だから、もう少し待っててもらいましょう」
震える声で俺を慰める花恵に、気の利いた言葉を返すことができないまま、俺は内側から溢れる感情や今までの思い出を涙にしていた。
「――もっと、色々してやりゃあ良かった」
小さいくせに存在が大きすぎたんだよ。お前は。
だから、また会った時は覚えてろ。膝に乗せて、嫌がるまで頭を撫でてやる。
――記憶の中のチビが嬉しそうな顔をして、尻尾を振った。
余談/登場人物
秋永 芳朗(あきなが よしろう)秋永 花恵(あきなが はなえ)秋永 チビ(あきなが チビ)
自分の抱える思いを話に託しました。
▼伝えたい
自分の中で思いついた詩や物語が少しでも誰かの心に届けば良いな。そんな願いを込めて、今日も言葉を紡いでいく。楽しみながらも悩みながら、ひとつの作品を作り上げていく。
名も知らぬ貴方もきっと、心の中にある世界を自分の言葉で紡いでいくのでしょう。
――輝く太陽のような言葉で夜空のような言葉で激しい雨のような言葉で木漏れ日のような言葉で。
今日もまた、どこかで誰かの世界が作られていく。