「ロク、ごめんね」
いつものようにこの場所に訪れた彼女は、泣きそうな顔をして言った。笑顔を絶やさない彼女からは考えられないものだった。言葉の意味も分からず「何を謝られているのか分からない」と返す。口を小さく開くが、首を横に振って「言えない」と答えた。腕を伸ばし、柔い手のひらで彼女は俺の頭を撫でる。撫でやすいように屈むと、彼女には無い俺の頭の両側に生える角の片方を愛おしそうに触った。
「ここならずっと平和に暮らせるから」
――それだけ言って彼女はここから去っていった。一面に咲く淡い青色の花だけを残して。
あれから何日が経っただろう。ここはこんなにも静かだったか。大きな鳥居の前に立ちながら、いつも彼女が来る道を見つめる。
“ここならずっと平和に暮らせるから”あれはどういう意味だったのか。無限にある時間のほとんどは彼女のことで埋め尽くされていく。
そこでハッとする。この外に出て今度は俺が彼女に会いに行けばいいじゃないか。なぜ今まで考えなかったのかが不思議なくらいだ。鳥居の外へ足を進めると、木々や花々が不安げに揺れはじめた。行かないでと言われているような気がしたが、俺は構わずその場から離れていった。
思えば、鳥居の外に出たことがなかった。気が付いたらここに居て、彼女が傍に居た。日に日に彼女は成長していくのに、俺はこの青年の姿のまま変わることがなかった。それに、彼女には角が生えることがなかった。不思議に思って彼女に聞いたが、「人はそれぞれ違いがあるんだよ」と言われたので、そんなものなのかと受け入れた。
歩いていく中で、彼女との思い出を振り返る。幼い頃の彼女はやんちゃで、目を離すと近くの川に一人で入って流されそうになったり、木に登って降りられなくなったりして、きつく叱った後は泣く彼女を背負ってあやした。しかし、それもいつしか落ち着いていき二人でゆっくりと談笑できる関係になった。
この全てが俺にとっては、大切な時間であり、俺の世界にあって当然のものだった。これが、ずっと続くと信じて疑わなかった……。
思考の海から抜け出し最後の階段を降りると、ちょうどそこに少女が地面に絵を描いて遊んでいた。他に人は見当たらず、俺はなるべく怖がらせないよう声音を柔らかくし、声をかける。
「お嬢さん。絵を描いてる最中すまないが、ちょっといいかい」
「――え?」
「人を探しているんだ。彼女は……」
名前を頭の中で探した。しかし、この長い日々の中で俺は彼女に名前を伝えられたことがないことに気づく。俺が黙っていると少女は口を開く。
「ロク様?」
呼ばれた名は、紛れもなく俺の名前だがこの少女と面識はない。「どこかで会ったことがあったかい?」と返すと、少女は険しい顔をし、手に持っていた木の棒を手放して立ち上がる。
「村の守り神様がここまで降りてくるなんて……。でもなんで、確かお姉ちゃんが……」
村の守り神様、俺を見て確かに少女は言ったが身に覚えがない。それに、その後に続いた“お姉ちゃん”は誰のことなのだろうか。もしかして彼女のことか?
「とにかくすぐに戻って下さい! 見られたら取られちゃうかもしれない!」
「取られる? 何を?」
「その角を!」
「これを?」
少女は、首をかしげる俺の背中を押して来た道を戻らせようとする。しかし俺は納得がいないので、動かずそのまま話続けた。
「まず、村の守り神様とは、俺のことなのかい?」
「うん」
「その“お姉ちゃん”とは俺の知っている彼女のことか?」
「そうです。貴方に会えるのは、巫女であるお姉ちゃんだけなので」
「彼女は巫女だったのか」
「最後まで何も教えなかったんだ……。ああ、でもお姉ちゃんだからか……」
少女の声が悲しげに耳に届く。状況は分からないが、どうやら少女を悲しませてしまっているようだ。
「すまない。しかし、俺はただ彼女に会いたいんだ」
「ごめんなさい。それは出来ません。……でも、一緒に元の場所に戻るなら理由を説明します」
「…………」
「お願いします。お姉ちゃんは、ロク様を守りたいだけなの」
背中を押していた小さな手が、俺の手を掴む。俺は少女の言葉の重さを感じ取り、今度はその手を拒まずにまた石造りの階段を上っていく。しばらく少女は黙っていたが、ポツリポツリと話し出した。
「……その角には力が蓄えられています。巫女は本来、ロク様に今までの村の歴史を全てを話した上で、村に災厄が訪れた時にその力を使う許可を得るのが役目。でも、巫女を継いでから、お姉ちゃんはずっと悩んでいた。村の守り神である貴方に自分たちがやっていることは、あまりにも身勝手過ぎるって」
彼女が悩んでいたのを俺はこの時初めて知った。最後に見たあの顔が、脳裏に過ぎる。自分の力にそんな力があるのを今知ったが、彼女なら自由に使ってくれて構わないのに何故そこまで思い詰めていたのだろうか。自分の中では答えが見つけられないので、「何故、彼女はそこまで悩んでいたんだい」と素直に訊ねてみた。少女は階段の途中で足を止め、振り返り俺の角を指さす。
「力を使う為には、ロク様のその角を取らなければならないんです」
「……別にそれくらい構わないが。取っても、この角はまた生えてくる」
これは誰に教えられたわけでもなく、何故か俺は知っていた。本能的なものなのだろうか。
「取る度に記憶が無くなるんです。それを取れば、ロク様はお姉ちゃんのこともお姉ちゃんと過ごした日々も忘れてしまう……」
心臓がひとつ大きく脈を打つ。それに合わせるように強い風が過ぎていった。少女は、また階段を上っていく。俺も、ゆっくりそれに続いた。少女の話を一瞬信じられなかったが、この話が不思議なくらいスッと胸の中に入ってくるのも感じていた。「この話は真実だ」と何かが囁いてるのだ。
「……それに、代償は記憶を無くすだけじゃなかったんです」
階段を上り終え、見慣れた鳥居が見え始める。まだ日は高いはずだが、少し薄暗い。こんな場所だったろうかと考えていると、次第に木々の間から日の光が入り始め。辺りの雰囲気が明るくなっていった。「これならこの子も怖くないだろう」と安堵して、俺は少女の話の続きを待つ。
「ロク様の角は、取る度に小さくなっているの」
「……それは、これが無くなる日が来るということかい?」
「うん。……そして角が無くなれば、同時にロク様も消えてしまう。その角は、ロク様の力であり“命”そのものだったんです。……私たちは、貴方の命を犠牲にして願いを叶えていた。人の願いばかり叶えて、その度に記憶を無くして、最後には消えてしまうなんて、酷すぎる」
目の前を歩く少女は、肩を小さく震わせている。まるで自分のことのように、怒り悲しんでいるのだ。それが彼女に似ていて、一瞬だけ少女と彼女が重なった。
「それに、神様が居なくなればこの地は荒れていく。お姉ちゃんはこの事実を村の人に説明しました。多くの人は分かってくれたけど、欲深い人は居るので……。でも! ここを出なければ大丈夫です。ここには、巫女の家系の者以外は辿り着けないから。……本当は、ちゃんと説明しなければいけないことでした。本当にすみません。でもお姉ちゃんはきっと、貴方を……」
鳥居の前まで来て少女は足を止め、俺の手からその手を離す。少しの沈黙が俺と少女の間に下りる。こちらに少女は顔を向け、「これは言えないや」と説明していた時のどこか大人びた雰囲気を消して、年相応の笑顔を浮かべた。俺は、それを見つめた後にゆっくりと自分の居るべき場所へ足を踏み入れる。少女のおかげで分かったこともあるが、まだ疑問が一つ残っていた。少女の方を向き、俺は問う。
「何故彼女は、今までのようにここに来られないんだ?」
自分でも諦めが悪いなと内心苦笑したが、どうしてもそれだけは確認しておきたかった。少女を困らせていることは分かっていたが、俺は感情を止めることが出来なかった。
「……巫女としての責任を果たせないことへの罰は必要だと言われました。罰は、ロク様に会わないこと。絶対無いけど、お姉ちゃんが自分の願いの為に角を利用しないようにって意味もあるんだそうです。……だから、もうここにお姉ちゃんは来れません」
「……分かった。俺のわがままに付き合ってくれたこと感謝する。さあ、早くお帰り。彼女が心配する」
俺の言葉に少女は頷き、背を向けて去っていく。それが見えなくなるまで待ち、この場に自分だけになってから奥へと戻る。
自分の角を触った。これが取れれば俺は記憶を失い、寿命も削られていく。だから彼女はそれを防ぐ為に動き、条件を飲んだ。ならば俺はそれを、無下にすることは出来ない。
「――何も知らずに過ごしていたのは、俺だけだった」
彼女はあえて何も教えることなく、“人”として俺と接していたのだろう。優しさと捉えることもできるが、反面これは残酷とも受け取れる。
「君も、存外自分勝手だな」
事実、全てを今知った俺は自分の気持ちを上手く抑えられていない。口から出る言葉を彼女が聞いたら、きっと黙って受け入れるのだろう。
どうしようもないこの気持ちは何だろうか。悲しい、苦しい、寂しいそれらが混じり合っていき、両目から次々と涙が溢れていく。これの止め方を俺は知らない。いつもならば、笑う彼女が隣に居た。その時に感じた温かさが俺の満たしてくれていた。でももう、それは叶わない。
「こんな時に呼ぶ名前さえ、俺には分からない」
きっとこれにも理由があるんだろう。でも、どうしてそれなら最初から教えてくれなかったんだ。理解しようとする気持ちと説明を怠った彼女への気持ちがぶつかり合い、まとまらない。気分が悪くなり顔を下に向けると、花々が顔を見せた。そのまま屈んで近くで見る。花弁は淡い青色を身に纏い美しい姿をしている。ふと彼女がこの花が好きだったのを思い出すと、口角が自然と上がった。それに一つ、ため息を吐く。
――自分勝手に一人で全て抱える君を、俺は心から憎めないそうにない。
そう思った瞬間、胸の中に温かさを感じた。意識を集中させるとよりそれは強くなる。
「――彼女だ」
彼女が俺を思っている気持ちが伝わってきたのだ。何故かは分からないが、遠く離れた場所から、確かに彼女のあの優しさが俺の心を満たしていく。この気持ちを心から愛おしく感じ、そこで初めて自分の気持ちを理解した。
……ああ、彼女もそうだったら嬉しいのにな。
名も知らない彼女との思い出を俺は忘れることはないだろう。これがこれから先、俺の支えとなるのだろう。そっと花に触れると、ふわりと柔らかい風が吹き、花は嬉しそうに揺れた。
「君と過ごした“人”としての俺は、思い出の中に仕舞うことにするよ」
――俺は、ロク。この村の守り神。俺がここに居ることでこの地が守られるならば、永遠に居続けよう。
俺は涙を拭いて彼女に向けて短い言葉を紡ぐ。それは、誰にも聞かれず消えていった。
2021年09月26日(日)