姉はギャルだった。
浜崎あゆみのでかいポスターを部屋に掲げ、ドコモの携帯をラインストーンでキティちゃん模様にデコっていた。肌こそ焼かない宗派ではあったが、ブーム終焉間際のルーズソックスもきっちりたしなんだ。洗濯する母の「全然乾かない……」という嘆きを記憶している。
明るくて目立ちたがりな姉と、引っ込み思案な弟の私。5歳離れている姉はすぐに遊びに出かけるから喧嘩するほど時間を共有するでもない。小さい頃の私をかわいがってくれ、大きくなるにつれ、かわいくなくなったーとか軽口をたたいてくる。姉の特性と正反対に、運動音痴で勉強が得意な私のことを一目置くというか、面白がってくれているところがあった。
我が家は姉を中心に回っていた。物心がついた頃から、優しくておとなしい父が家の方針を決める、みたいな場面は覚えがない。たまの旅行の行先は姉の望みで決まったし、テレビのチャンネル権も行使されて音楽番組が流れる。
たまたま地方ツアーに来ていた宝塚歌劇を、母に連れられた中学生の姉が観に行った。当時トップスターだった真矢みきに姉はドはまりし、宝塚関連の雑誌やVHSが家に大量に集積することになる。私は男だからと一丁前のジェンダー意識から声高には興味を示さないようにしていたけど、リビングで再生される宝塚の映像はありがたく一緒に見て、ミュージカルというエンタメの型を身体に染み込ませた。雑誌も盗み見て、タカラジェンヌの難解な漢字を読み解くのを楽しんだ。姉の好きなあゆや倖田來未の音楽を私もこっそり聴いていたし、不在の時を見計らって少女漫画をたくさん読んだ。姉から受けた影響は計り知れない。
姉が高校3年、私が中学1年の時に、父親が仕事中の事故で亡くなった。蝉の鳴く夏休みのある日、電話を受けた母から知らされたのだけど、突然のことで何が何やらわからなかった。混乱のまま葬儀を終えてしばらく経ち、気の弱い私や母親がどうにかして日常生活へと戻っていけたのは、ひとえにエネルギーの塊のような姉が我が家にいたからだった。バーミヤンのバイトが忙しいし、高校卒業前の時間のあるタイミングで車の免許もとっておきたいし、とあっちへこっちへ動いている姉が近くにいるから、心のどこかで、なんとかなるのかもしれないと思えた。
真面目な父親が生前に保険などを色々と采配してくれていたおかげで、我々は当面の生活や学費のことを心配しなくていいようだった。姉は岐阜県の中規模の街にある我が家からも通える、名古屋の芸術大学のミュージカルコースに進学する。宝塚音楽学校への挑戦こそしなかったが、幼少期から続けていたモダンダンスを活かして、自分の道を探求しようとしているらしかった。
父が亡くなった翌年、大学に入学して半年ほどの18歳の姉は、大学の先輩の伝手を頼って、友達とニューヨークのブロードウェイへ貧乏旅行をした。本場のミュージカルを体感しに行ったのだ。勉強はからっきしで英語もおぼつかない姉が未成年にして大胆な行動をするもんだと当時も、大人になった今の私も思う。もしかしたら父の死を受けて、やりたいことはできるうちにやった方がいい、と彼女なりに感じとっての行動だったかもしれない。
姉が大学在学中、幾度か、成果発表みたいなステージが催され私も観に行ったことがある。姉はレッスン経験の少ない声楽のハンデもあり、中心の配役ではなかった。だが、すらりとした手足や華やかな雰囲気は、身内だからだろうけど、それでも目を引くものがあった。年次を経て、いい配役をもらえるようにもなっていたようだ。ひょっとしたら、地方に住む人間には考えもつかないような、ひとかどの存在になるのではないか。私も母もどこかで、期待するところがあった。
だから姉が大学4年、私が高校2年の夏に、めずらしいガンを罹患した姉が余命わずからしいと母から告げられた時は、信じられなかった。
運動神経抜群で、元気で明るい姉が間もなく死ぬなんて信じられない。というか父親がつい数年前に亡くなったばかりで、若い姉も死ぬなんてそんなの、馬鹿げていた。
レッスンとバイトの過密スケジュールによる疲れがなかなか収まらないため検査した結果、手の施しようのないガンだとわかった、という母の話を、けれど私は、数分のうちに事実なのだと理解することになる。当時できたばかりの地元のイオンモールの駐車場に停めた車の中で、姉の病状を告げる母のこわばった声は、父の死の知らせを伝えてきたあの時と同じだったからだ。まったく同じように、外では蝉がうるさく鳴いていた。
そうして岐阜市の大きな病院に入院した姉を見舞った日々のことはよく思い出せない。2か月ほど経って、姉の22歳になる9月の誕生日を迎えてから数日して、彼女は息を引き取った。
死ぬときは死ぬんだから悔いのないように生きなきゃ、とか、立派なことは当時、私はまったく思えなかった。死んだ父と姉が生きたくても生きられなかった命を、背負う余裕などない。自分は父と比べて、姉と比べて、生きるに値する人間なのか。答えの出ない問いだった。
その代わりに、進学校に通う私には大学受験という題目が目の前に差し出されていた。がんばって考えれば決まった答えにたどり着ける問いには、安心して集中することができた。手を動かして、心のざわざわを鎮める。勉強のことや、テレビのお笑い番組のことで一緒に一喜一憂できる友達も周りにいて、ありがたかった。
以来、私は関西の大学に進学して、就職を機に東京に住むようになったけれど、20代の中頃まで、他者に家族の話をすることがうまくできなかった。誰かの兄弟の話が出る時、それはたいてい仲間が打ち解けるきっかけになることが多いわけだけど、その場の雰囲気を壊さないよう自分のことはあまりしゃべらなかった。
ゲイだとセクシャリティーを自認できるようになったのも、20代の内に徐々に、という感じだった。自分の考える自分という人間を、誤差なく他人に開示する方法を、ずっと模索していた20代だった。ゆっくりと身近な友達にセクシャリティーや、父と姉の死のことを話せるようになっていった。20代も後半に差し掛かり、会社員生活でのモヤモヤもからめて小説作品に昇華できないかと、小説家養成講座を受けたりもした。
30代となって過ごしたこの2、3年。ある文章教室で出会った仲間と文フリに出店するようにもなった。自分の道のりや日々の感情について言語化をし、文章にして、他者と交流することが特に増えた。そういうことを肩ひじ張らずに楽しめる余裕が、ようやくできてきたのだろう。
これまでの人生を一通り整理できるようになった30代。心を占めるのは、「ニューヨークに行きたい!」という思いだ。体力も曲がり角に差し掛かっている。元気なうちに欲望と向き合った方がいい。18歳だった時の姉と同じように、本場のブロードウェイでミュージカルが観たい。東京で会社員生活を送る私は、たまの休みの舞台観劇を糧として、日々をやりくりしてきたのだった。東京の主要なミュージカル向けの劇場をあらかた制覇した、少し小金を稼ぐようになった私は、野心を膨らませていた。
2024年7月27日から8月2日、私は会社の夏休みを利用して5泊7日4ミュージカルのニューヨークひとり旅を決行した。えげつない円安ドル高、物価高の中ニューヨークに行くのはなかなか非合理的だったと思う。でも私には必然性があった。そんな旅行にまつわる日記を、ここに書き留めておく。
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【12/1の文学フリマ東京39に出店します!】
以上の「姉に関する長い前書き」を収録した、ニューヨーク旅行の日記本を文フリで売ります!
『姉参り・イン・ニューヨーク』 (A5/56p・500円)
【ブース:L-53、日記売りの青年】
私のミュージカル好きの源流である姉の思い出、馬鹿高い航空券を清水買いする東京パート、旅先での珍道中、全てを詰め込みました!過多!
よろしくお願いします!
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