私の中の私と推しについて

旅するかに
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昔SNSで「人はトラウマを与えられた年齢で一度時が止まり、自分の中にその時の自分が残り続ける」という話を見かけました。

なるほど、と思ったのは私の中にも3人の私がいるからです。

私は昔から空想ばかりする子で、誰かと外で遊ぶことも好きだったけれど、同じくらいひとりでぼんやりと自分だけの友人を作りお話をすることも楽しんでいました。

私の中にいる友人は3人。1人は当時の私より少し小さい、幼い女の子。1人は大人っぽくてあまり本心を打ち明けてくれない少女。もう1人はヤギの姿をした、いじられ役だけれど頼りになる女性。

私は3人がとても好きで、秘密の相談や大事な決断は全て彼女たちに打ち明け、アドバイスをもらっていました。意見が割れることもあったけれどその度話し合い、ゆっくりと人生を選んでいく日々は穏やかで素敵だったと今でも思います。

しかし大人になるにつれ空想も俗っぽく、現実的なものになり、いつしか彼女たちはいなくなってしまいました。

その頃から、私は私の中にいくつかの私がいることに気が付きました。そう、冒頭でお話した、トラウマを与えられた私です。

最初の私は5歳か6歳ころ、母親の機嫌を伺うことを覚えた時期です。私は母がどれくらい苛立っているかを笑うことで測っていました。私が「にこー!」と言いながら笑顔を作ると母も笑ってくれるのですが、その時の表情で本当に楽しいのか、疲れているのか様子を伺っていたのです。

ある日私がいつものように「にこー!」と言うと、母はうんざりした様子で「ママそんな気分になれないの」とキッチンへ戻っていってしまいました。私はその日酷いショックを受けて、それからというもの何も言わずとも母の機嫌を伺えるようにじいっと母を観察するようになりました。

そのころの、甘えたがりでわがままな私が、今も私の中にいます。

2人目は17歳の私。自我が芽生え、母の言うことを全て聞けなくなり、「どうして私はお母さんの言うことを聞けないんだろう。昔みたいに、お母さんの言う通り何でもできる私に戻りたい」と自分の変化を受け入れられなかった時の私です。

何度も自分を傷つけたり、離人感のまま近所を彷徨ったり、誰かに今の自分を伝えることを恥じたり。とにかく、衝動を自分の中で処理しようとしては自分を傷つけていました。

今ならそれが成長だよと言えるのに気が付かなかった私の視野の狭さよ。よく私大人になれたよ。

3人目は21歳の私。ストーカー被害にあっていた時です。

これでもかと傷つけられ、痛みに耐える日々が続き、ついには痛みに気が付かなくなってしまいました。これによって今の会社でもしんどくないのに大泣きしてしまうのですがまあそれはそれ。

平気な顔をして人に寄り添い、アドバイスなんてしてしまって。それなのに自分のケアは一切できない見栄っ張りの人。それが私の中に今もいます。

ああ、書いているだけでストレスでどうにかなりそうです。

私の中に私が複数いると、とにかく毎日にぎやかです。やれ悲しいだの、やれイライラするだの、公園に行きたい、大宮で降りるな熱海まで行ってしまえ、パンケーキが食べたい、いや焼肉、本が読みたい、服が欲しい、もっとかまって。

思い出しただけでげんなりしてしまいます。私は1人しかいないんだから、1人のお願いしか叶えられられないんだよと何度心の中で唱えたことか。ちなみに大体1番小さな私の考えが採用されます。ほかの私は存外大人なんですね。

騒がしいけど寂しい毎日。3人に共通する「寂しがり」を埋めるため、みんないつも誰かに会おうとします。けれど疲れて家にこもり、ケーキを作ろう、いや資格勉強、待ってこの前買った本を読もうよ。いや家にいても心休まらないわ。今日は私がやりたいお昼寝をします、なんて私もわがままを言ってみたり。

そんな趣味嗜好が異なる私たちですが、好きな人はみんな同じです。

ほんの少しの友人、最近できた気になる人、そしていつもキラキラ輝く大好きなアーティスト。私たち4人は片手で数えられるだけの彼らが本当に大好きなのです。

ちなみに4人の性格が違うせいで困るのは推し活。推しだけでいいや!推しが全て!と特別を1人だけにしようとする17歳の私と、推しだけなんてつまらない!そんな良く分からないプロデュースアクセサリーを買うより楽しいことろにいこうと、どこかに出かけようとする5歳の私が争うのを21歳の私と今の私がやれやれと宥めるのです。

そんなちぐはぐな私だから、時折分からなくなってしまいます。

推しを全てにしたくないと思う私と、推しだけを見ていたい私。崇拝する人に人生をささげたい私と、私以外を大切にできない私。この矛盾で今も苦しんでいます。いやまあ苦しんでいるからこんな感情の掃きだめみたいな言葉を紡いでいるんですけれども。

でもきっと、結論は出ないんだろうなと、今日も彼女たちの話に耳を傾けるのです。

幼い私がわがままを言って、高校生の私が自分の気持ちを押し殺して、優しいがゆえに舐められがちな大学生の私がみんなを宥めて、私はそれをぼんやりと眺める。

そうして私は気付くのです。

あの日いた友人は、まるで私の中の私たちにそっくりだと。