推しの技術は「好き」で語る

helloyuki
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推しの技術は好きで語るに限る、と個人的には思う。

たとえば私はReactが大好きだが、Reactを説明する際にわざわざVueを貶す必要はない。ここで重要なのは「貶さない」である。最近そういう事例を見たのでReactとVueを例に出したが、Rustの使い手がPythonに対して文句を言う際など、事例を挙げ出せばキリがない。

貶し

「貶す」というのは、要するに主観的な観測で一方的に対象の技術を非難する行為である。たとえば、「VueはReactに比べてGoogle検索で低品質な記事が多く、ハマった際に早期に脱するのが難しい」「Pythonはビルドツールが乱立していて開発生産性が低い」「Pythonは動的型付けなのでミスが多くなり開発生産性が低い」などである。「主観的」というのは要するに、他の観点からのその主張に対する反駁が難しいことをいう。「低品質な記事が多い」というのは適切な尺度を用意して測定することが困難であり、ただしさの立証が難しい。立証が難しいということは反駁も難しい。つまり、これは主観的、と言える。「お前がそう思うんならそうなんだろう、お前ん中ではな」と思えてしまうものとも言えるかもしれない。

そのほかに思いつく、あまり議論の価値がないものとして、特定のプログラミング言語/フレームワークの「読みやすさ」や「書きやすさ」などが考えられる。これらはやはり、客観的な指標を用意して測定することが難しい。もちろんそういう研究もあるかもしれないが、それらを踏まえずに議論しているケースがあまりに多い。読みやすさや書きやすさは、そのプログラマが過去にどのようなパラダイムのプログラミング言語を経験してきたかに大きく依存するため、議論の結果何か共通見解を作るのは難しい。そういう意味では議論の価値があまりないもののひとつだろう。私は個人的には、これは自転車置き場の議論の一種だと思う。

ちなみにだが、主観的な主張に対して反論をいくら並べても、その主張を否定するのは難しい。なぜなら議論の土台となる客観性のある論拠がないためである。そのため、主観的な意見に対する反駁は生産性が低く、基本的には無視するに限る。ただし、そうした主観的な主張はなぜか支持を集め、その技術に対する「イメージ」を作り上げる。そうして作り上げられたイメージが悪評であった場合、訂正する必要が出てくるかもしれない。そうなった場合、主観的な意見に対する反駁は意味があると思う。相手の主張を取り下げさせるのは不可能だが、イメージ毀損の回避のためなら反駁にも意義がある、ということである。

比較

ところで、両者の、事実に基づいた「比較」は悪いことではない。技術はそもそも何かの問題を解決するために編み出されるものであり、当然それには解決したい目的がある。そして、解決したい目的に対してさまざま手法をとるからこそ、技術として成立する。したがって、何か技術を論じる際には比較は避けては通れない道である。なぜなら、私たちは比較によって技術が対象とする問題領域をより深く認識でき、その技術がその問題の解決のためによい手段をとっているかどうかを理解できるようになるからだ。

ただし、その比較が客観性に欠けていたり、何か誤りが含まれる場合は、当然訂正を主張しても良い。「貶す」という行為との違いは、こうした反証可能性や訂正可能性を含む点である。主張が反証(ないしは訂正)可能性を含むのであれば、それは正当に議論されるべきではないかと私は考えている。

ちなみにだが、SNSを見ていると比較行為でさえ「すべきでない」という議論になっているのを見ることがある。私はこれは健全ではないと思う。それでは健全な技術コミュニティの成長にはつながらないだろう。「貶し」に対しては毅然とした態度で反論して良いと思うが、「比較」は中身の品質が十分かつ、作者が議論に応じる姿勢があるのであれば、それをユーザーが行う自由が当然ある。加えて、比較はその技術の健全な発展に資する可能性が高い。似たような問題領域を起源としてふたつの技術が登場した場合、両者の比較は、比較に参加したひとびとの思考をより深め、新しい第三の技術を登場させるかもしれない。

ただ残念ながら、比較行為でさえ自身の推しの技術を貶されたと感じる人は多そうだ。理由のひとつとして、十分で納得できる比較を成立させるのが難しい、ということがあげられる。さまざまな観点が熟慮されていない比較はどこか反論したくなるし、場合によっては貶しと感じられる、という結果につながることが多い。

また、公共の場では、そもそも上述したような「貶し」と「比較」を参加者全員が前提条件として認識しているとは限らない。また、この概念をあまねく共有し、両者があるのだということを前提として言論活動をするのは不可能に近い。そういう意味では、比較行為を公共の場で議論するのは、無用な反発を生むため効率がよくないかもしれない。

「好き」で語る

そういうわけで、公共の場では推しの技術は基本は「好き」で語るのがよい、と私は思っている。「好き」の発信は貶しにも比較にも当たらない別軸の存在だからである。

「好き」は主張が簡単である。好きというだけで良いからである。この技術が好きなのだ、好きだから使うのだという主張に対しては、残念ながら「ああそうですか、そうですよね」というしかない。正直SNS上の見ず知らずの人という距離感においては、このくらいのコミュニケーションがちょうどいい。加えて「好き」は白黒がつきやすい。好きか好きでないか[^1]の二択にわかれる。インターネット上でのやり取りを見ていると、人間の性なのか白黒つけたがる傾向にある。好きの発信は、少なくともネガティブな方向への白黒のつきかたには向かわないことが多そうに思う。

「誰も傷つけない発信」という言葉は、原理的にはあり得ないと思っているし、個人的には嫌いな意思表明だが、「好き」は人を傷つけにくい。傷つけにくいということは反発も生みにくい。つまり、自分の精神衛生にもきっとよい。もっとも、気になっていた人が実はお金が好きだった、みたいな別の意味での「うわぁ…」が起こらないとは言い切れないけれど。

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[^1]: 嫌いだ、ももちろん含意するが、中立な感情もここに含まれるだろう。我々は中立であることをついつい見逃しがちだが、立派なポジショニングのひとつだ。

@helloyuki
東京で働くソフトウェアエンジニア。ときどき(?)スプラトゥーンプレイヤー。👶🏻育ててる。