わたし・僕は何もない、死にたい。という言葉を目にするし、僕もこの感情に支配されていたこともある。何かを成し遂げなければならない、自分に出来ることは何だ、あいつは何とか賞、あいつは結婚していま幸せな家庭を育んでる。産まれた時から周囲はコンクリートに囲まれて野生動物からの恐怖はなく、既に交通網は整備されてチェーン店で異国のご飯がワンコイン。そしてこの手にある端末は音楽・動画・コミュニケーション全てを遂行することができる。僕らは膨大なものが「すでに存在する」状態で産まれて来たのだ。
多分、僕らはいい子だ。いや、いい子だった。親は習い事や塾で高い成績を取ると褒美を与えて、低い成績を取ると罰を下す。素直だったから成績が全てだったし、習い事で成果を出すことが僕らの存在価値の大きな基盤になっていった。
「未知」が恐怖だった。この端末でその実体の単語を調べればありとあらゆる情報が出てくるのに、いざ見かけてみると全然違う。教科書の提示する答えを出力することで、僕らの通知表は高くなり、それが大人に評価され褒められる。だから、自分で感じることが出来なくなる、自分で答えを出すことが出来なくなってしまう、それをすると叱られてしまうから。
ときおり、ぽやぽや生きてる人がいる。彼らは楽しそうだし、僕らみたいなことは考えない。彼らと僕らで根本的に違うのは自分で出した答えを信じることが出来ているからだろう。何もない、死にたいと漠然という人間は自分で答えを出すことが出来ないから、求める成果は客観的なことが多い。
長々と書いたが、僕らの「何者かにならなければいけない」観は常に競わされてた幼少期の呪いみたいなものなんだと思う。確かに当時僕らは追い込まれていたが、今追い込んでいるのは自分に他ならない。呪いを受け入れて才能に賭けた人間もいたが、まぁ僕らは別に何者じゃなくても僕であり、生きる権利があるということを忘れなければいい。