今はメタルフェニテードで狂ってます(コンサータ)。これを飲まないと狂うのに、飲まなかったら膨大な絶望と希死念慮に布団へプレス加工されて苦しみを出力し続ける計算機になります。メタルフェニテードを接種すると、情緒を入力することが可能になります。
人の情緒に訴えかけるものは須く優れた構造を保有していて、それは媒体が変化しても操作技能が異なるというだけで本質は似ているのかなって。笑いに関して最古の言及は存じ上げないけど、ベルクソンの「笑い」では[人間の人間的行動が、ある種の機械的なぎこちなさを持った時に生じる]と書いてあった、アップデートすると緊張と緩和ですね。
情緒に訴えるものは緊張と緩和に溢れており。起承転結、お笑い、音楽のドミナントからトニックへの終止とか。もしくはそれのアンチで、緊張→異なる緊張や緩和が永遠に続く物もありますよね。前者はまぁホラーやパニック映画がわかりやすくて、後者は日常アニメとかゴトーを待ちながらとかですね。
こういうことを考えると情緒に訴えたいという動機はむしろ、機械的に緊張と緩和やそれに連なる構造をエンジニアリングしましょうみたいな話になってきて、これが本当にうんざりするんですよね。
抽象的な物言いですけど、例えば映画で感動させられる脚本家になりたい!ってなったら、うんじゃあ1時間40分構成だからココで必ず3幕構成のこれを……みたいな話になる。
じゃあ、殴り書きすりゃいいじゃんってなるけど。やったことある人ならわかると思いますがこんなヘンテコなブログみたいなことになるわけですよ。
ジャックは構造が一人歩きしていると言っていたけど、アップデートすると計算機が独り歩きしていて。そこにコードな会話をミームという変数を用いて打ち込んで、身振り手振り表情というGUIで視認性を高める、計算機と計算機、構造と構造の入れ子にしかなってないことに絶望している。これはもしかしてリゾーム!?(ソーカル事件発生〜♪)
なのでもう本当に無知の知ってパフォーマティブというか、謙虚で好まれやすいというだけで無知無知(ムチムチ❤️)の方がええんちゃうか思ってしまいますわ。
愛してるものを理解したいから知を希するのに、近づくたびに虚しさが募る。そんな日々でした。