2024/3/12 3.11を通り過ぎて僕たちは

HellEmpressDemon
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 3.11東日本大震災はゆとり世代、Z世代の人生を大きく変えた歴史的てアイデンティティックな出来事だ。僕はゆとり世代が丁度終わりZ世代に交代する代で、小学校6年生の時に起きた。

 6限の授業が終わり友達と竹馬で遊んでいた時にそれは起こった。友達が竹馬になりながら360度回転するものだからその絵面に爆笑なんかしながら時間を過ごしていたら、人口芝生のコートが正弦波になり、低学年の子はその波に弾き飛ばされていた。竹馬は学校のエントランスの近くにあるのだが、そこで飼われているアロワナの水槽がぐわんぐわん揺れて水が溢れている。流石の馬鹿な僕でもこれは本当にまずいことが起きたのだと思った。

 いったん揺れは収まり、とりあえず教室の机の下に集まることになった。ガラパゴスケータイは混雑で一才電話が繋がらない、数の論理で近代機器も機能が停止したりするのだ。電車も終日動く見込みはなかった。本震は治っているのだがその情報を手に入れる手段が職員室のテレビしかなく、教室はパニック状態だった。なぜならこれよりもっと大きな揺れがまた来るんじゃないかとみんな考えるからである。

 当時、僕はミステリージャンキーだった。アガサクリスティーから入り森博嗣から沼に浸かり、今でも思い出に小学校時代好きだったガストンルルーの「黄色い部屋」と笠井潔のサマー・アポカリプスは本棚にある。つまり僕は「探偵」に憧れていた、非日常的な状況で理知的で冷静に振る舞い、危機に瀕したら全て知ってたかのように解決するのだ!

 そこで僕は何を思ったのか、先生の演説を無視して火の鳥を読むことにしたのだ。教室の本棚にある火の鳥は角川文庫版であり、紫が好きだった僕はヤマト編を手にして、机の下で読んでいた。だいたいこの手の狂い方をした人間が好むのは紫色なので、似たような人間がいたら「紫色好きでしょう?」と問いかけてみるといい。

 ヤマト編もクライマックスに突入する、生き埋めにされた人たちが皆んなで歌うのだ。自分たちはまだ生きている、という気持ちが一つになって生き埋めになった人たちが歌い出し、一人亡くなり一人亡くなり歌声は小さくなっていく。これを読んでいると、「もっと揺れたら僕たちも生き埋めになるじゃないか」なんて気が滅入ってしまった。そんなんで周りを見渡すと、気になっていたMさんが火の鳥の別巻を読んでいて少し照れた。Mさんは関わりの多い人ではなかったけど、笑顔が素敵だった。

 そして体育館に避難するわけになる、クラスの半分くらいは徒歩で帰ることが出来たが僕は電車通学なので出来なかった。あまり記憶が定かではないが友達と一緒に下級生から氷砂糖とカンパンを無理やり交換させたり、体育館で人数分寝るためこマットを敷いたりしてた。

 そんなこんなしてるとその友達の父親が車で送ってくれるという話になり、大体夜中の2時〜3時くらいに車に乗ることが出来た。そのあとは車内でぐうすか寝ていたので何時に家に着いたかは覚えていないが、ほぼ完徹した。翌日、福島第一原発のニュースが入った。

 僕はメルトダウンという言葉に覚えがあった、炉心融解である。メルトも関係ないけど語感が似ている。日本のナーバスなニュースに共感できるほどまともに社会性の発達していなかった僕は親が風呂に入ってる間にpcを開きvipのみんなの震災大喜利に夢中だった。テレビで3万人死亡、と流れた時のショックは凄い。自分が死んだら1人死亡だ、僕の人生では悲しいこと嬉しいことがあり出会いがあった。それが3万、失われたのである。3万人死ぬということは3万の人生が終わるということだ。加速的に云百という単位で死者が出たことが報道される。その途轍もない大きさというものは、多分いろんな人の人生に傷をつけた、人生は矮小すぎると。

 おそらく3.11は60代のアポロ着陸のような、40代のリーマンショックみたいな、僕らという世代が付き合い続けなければならない壮絶な時間なんじゃないかと思う。

@hhah
欠落こそが君の哲学