
私がアーリング・カッゲを知ったのは、有名な冒険者をWikipediaで調べている時だった。冒険者や登山家が書いている本を何冊か読んでいるが、たいていはその冒険の熾烈さ、過酷さやそれゆえに得られる喜びなどが主に書かれている。ほとんどは冒険の詳細な記録と言っていい。のちの人々に経験から得られる教訓を示すための、冒険の手引書のようなものだ。
しかし、カッゲの本はどうも違うようだった。ケンブリッジ出身で、自身で出版社も起業していて、著作も何作かあるが、全て哲学書のようなタイトルがついている。Wikipediaではその冒険成果だけが載っていて、英語版でもさほど情報は多くなかった。ノルウェー人だから、ノルウェー語でならもっと情報はあるのかもしれないけれど。
この本では、タイトルからなんとなく想像がつくように、静寂とは何か、ということに関する哲学的な問答のようなものが書かれている。一章一節ごとの文章はせいぜい2-3ページといったところ。さらっと読もうと思えば、本当にすぐ読み終わってしまうような内容だが、ひとつ一つの内容に関して、自身の経験に照らし合わせて考えながら読んでいると、遅々として進まない。翻訳の文体のせいかもしれないが、たどたどしい言葉の連なりがポツポツと続いていて、どこか詩のような風情もある。
静寂とは、単に音のしない静かな世界だけを指しているわけではない。
もちろん話はそこから始まるけれど、どちらかというと心の平安、無心の状態について書かれている。静寂という状態を生み出すには、とか、心の雑音を取り除いて無風状態でいるには、とか。そうするための、手段や効用について。読み始めてまず思い浮かんだのがジョン・ケージの4分33秒だったが、その話も出てきた。日本の俳句についても。もしかすると、文化的には日本人の方が馴染み深いかもしれない。日本語に置き換えると、”無”の概念とでも言おうか。無というのは何もない、というよりは、何かあるけれど、何もないというイメージが私にはある。カッゲの言う”静寂”も、ただ静かである、ということではなく、静かであることに耳を傾ける、その心のありようについて表しているようだ。古今東西、哲学者や宗教からの引用も豊富で、見識の深さが窺い知れる。彼はその探検という実際の行動と、それらの知識とを併せ持っているからこそ、”静寂”の境地にたどり着いたんだろうなと思う。
カッゲが言うには、言葉には限界があるらしい。これは少しものを突き詰めて考える人なら、誰もがぶつかる壁だと思う。言葉では、当たり障りのない思考しかできない。この本を読んで、いま、私は急いで思考を消化するべくこうやって書き表しているが、書いた端から、これらの言葉の羅列には実際に限界を感じる。大切なのは、たぶん、この本の中で私が一等好きな言葉「あなたの南極点はあなたが自分で見つけなければならない」、これを片手に、夜空を見ながら散歩をすること。そこに静寂があり、空があり、宇宙があり、無があるのだろうと思う。