草間彌生の芸術の、どこらへんに魅力があるのか

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まず前提として、私は草間彌生氏の作品が、好きでも嫌いでもない。何回か大規模な展覧会を見に行って感じたのは、ちょっとモヤモヤしたものを感じつつも惹きつけられる、底知れない引力。好きというのではないけれど、見たあとは、ずっと頭にどこかに残り続けているような感覚がある。

昔に松本市美術館で見た展覧会『永遠の永遠の永遠』、私は展示された絵の一枚を見て衝撃を受けた。それは幼い頃に書かれた絵で、すでにそこにはあの水玉が(!)。自画像、というタイトルだったと思うけれど、テーブルの奥で腰掛けている少女の絵の上に、大量の ○ が降り注いでいたのだ。それにしても彼女のトレードマークとも言えるこの丸、ドットは一体何を表しているのだろうか?

彼女の初期作品を扱ったギャラリストが、「ピープショー」(合わせ鏡に囲まれた無限空間の中で電灯が点滅し続け、それを小窓で外から覗くという作品)に関して、秀逸なコメントをTateの映像のなかで出している。

"She was taking away your ability to focus breaking all boundaries of space."

「彼女は全ての境界を壊すために、観客の空間把握力を奪っている」

つまり、彼女はEnvironmental artistなのだ。このEnvironmental artが何かというのはひとまず置いておいて、彼の言葉はこう続く。

"Up till Kusama, there were many artists from the Renaissance on, who were involved with perspective and infinity. But it was all fake. Because you knew, you were the viewer. You were always aware that you were the master. That it was a painting that was encompassed by a frame and the artist was playing with space, but it wasn’t enveloping you."

「ルネッサンスからこっち、草間が現れるまで、多くのアーティストが遠近法や無限(を表現すること)に関わってきた。しかし、全ては偽物だ。なぜなら、あなたが「観察者」であることを、あなたは知っている。あなたがその場の主人であることに、常に気がついている。絵画というのは枠に囲まれているから、アーティストは空間をいじることはできるが、あなた自身を包摂する作品は作れなかったんだ」

要するに、草間彌生氏にとってドットや鏡は "永遠" や "無限" を表すための手段の一つであり、彼女はそのキャンバスとして、私たちのいるこの空間全てを用いているのだ。

例えば、あなたの今いる部屋、それを机であろうがペットの猫であろうが、あなた自身であろうが、食べ物であろうが、対象の属性に関係なく、ドットのシールを貼りまくることを想像してみて欲しい。その空間にもともと何があろうが、水玉が物事の境界をなくし、全てが統一されてしまうのが分かるだろうか?これが、彼女がEnvironmental artist、つまり環境アーティストと呼ばれている所以だ。

ちなみに草間自身はこれを「水玉の自己消滅」と呼んでいる。全てが消え去り、自分自身もなくなって、永遠の流れに個が合流するさまを表している、と自身の口で語っていた。

ここからは私の非常に個人的な考えだが、全てのものを化学的に分解するととどのつまりは分子であり、例えば今地球が高温の光に焼かれて一瞬で消滅したら、残るのは、無限の粒子。草間彌生は「死」や「生との戦い」という言葉を度々口にするが、人間という存在が普遍的なもののなかでどう在るか、別にそこら辺にあるカバンやサンドイッチと基本的には何も変わらないドットの連続であり、それを表現したいんじゃないかなと思っている。”物事の境界をなくす” というのは、そういうことなのかなと。

「ピープショー」も、その永遠や無限の流れそのものを作品、主役として置くために、鑑賞者自身はその作品の中をちょっとPeep(覗き見)することしかできないようになっている。これを見て私が思い出したのは、量子力学における観測の問題「観測することは必ず対象に影響を与える」。無限を表現するには、自分自身もその一部にならないと無限として捉えられない。でも自分自身も無限の一部になってしまうと、もはや観測者ではなくなってしまう。

それを芸術的な観点からある種の解釈が導き出されている、と感じるのが、私が草間彌生の作品を体験していて感じることだ。

科学というものは、それに関わる人が平等に納得できる証明を出さないと認められないので、どんなに優れた画期的な考えでも、それを単なるアイディアとして表現することはできない・しても意味のないことだけれど、アートではそれが可能だ。私は古典美術、現代アート、どちらにおいても、そういう何か世界の真理の一端と感じられるものが表されていれば、非常に魅力的に感じる。草間彌生も、私にとってはそういうアーティストのうちの1人なのだ。


むかし某質問サイトで受けたときの質問の答え、なかなか頑張って書いているじゃないかと思ったので、一部改変して再掲。もう数年前に書いたものだけれど、今も概ね似たような認識です。

@hhhhh
トーキョー在住 ふらふら