深夜。洗濯機を回している。一軒家になってから好きな時間に回せるようになったのがうれしい。洗濯物を干すのが面倒で嫌いだから本当は乾燥機を取り入れたかったのだけれど節約のため諦めた。ヘッドフォンで何かしら聴きながらやるとあっという間に終わることに気づいてから、少しはまし。
明日(日付の上では今日)からメルボルンに旅行に行く。パッキングは長い旅行でもだいたい前日にやる。我が家はいつも旅行の荷物がすごく少ないので荷造りが非常に楽なのだった。フライト時間が長い海外旅行の前夜はいつも夜更かしするのが自分のなかでの決まりになっている。飛行機の中で眠るためである。飛行機って、どうしても窮屈でぐっすり眠れないから。
絵が描きたいのでたくさん写真を撮ってこようと思う。メルボルンは本当に久しぶり。風景や街並みがヨーロッパみたいできれいだから好き。セントキルダに絶対に行きたい。ずっと昔にそこのビーチ沿いで日曜日にやっているクラフトマーケットで絵とか置物を買ったことがあって、心に残っているのだけれど、今もやっているなんて知らなかった。
十七歳のころ、高校のプログラムで一年間オーストラリアにいた。メルボルンから電車で四時間ほどの小さな田舎街で勉強した。あの時のわたしたちを受け持ってくれたイギリス人の先生に、高校を卒業してから親友と会いに行ったことがある。留学を終えて帰国し、日本で高校三年生をやっていたころ、先生は離婚してメルボルンへ移り住み、素敵なブティックで販売員になった。セントキルダは、たぶん再会したときに先生が連れて行ってくれた。ゲイの人やアーティストがたくさん住んでいるからクリエイティブな店が多いのよって教えてくれた。先生はヴィーガンで、背の高いグラスになみなみ注がれたトマトジュースを飲み、それにささったセロリを時々かじった。わたしと親友はそれについて何も言わなかったけれど、セロリ丸かじりってなんかオモロイなって思っていた。離婚してもわたしたちにとっては先生は先生だし、なんて呼べばいいのかわからなくてそのままミセスギブソン(先生の旧姓)と呼んでいたら、「もうあなたたちの先生じゃないからファーストネームでいいのよ」と言われた。日本人の感覚だと不思議だった。卒業して何年経ってもこれまでお世話になった先生方はわたしにとって先生のままだし、きっと今どこかでまた別の先生に会っても「〜さん」なんて絶対に呼べない。結局、当時のわたしはといえば、ミセスギブソンをファーストネームでうまく呼べなくて名前を呼ぶのを極力避けた気がする。けれど今思えば、いいと言われたんだから素直にその通りにすればよかった。「好奇心が一つのところにとどまることを許してくれないの。場所も男も! まだ知らない素敵なところってたくさんあるでしょう?」そんなふうに言っていた先生。再会した数年後にはイギリスに戻り、CAになったらしい。その後は知らない。
親友との旅は楽しかった。親友と何を喋っていたかなんて全然覚えていないのに、ふたりで見た素敵なシーンを覚えている。いちばんの記憶は夜(たぶん最終日)、メルボルンのタワーにのぼったときのこと。どういうわけかかなりすいていて、わたしたちと他数人くらいしかお客さんがいなかった。中央にカフェ・バーがあって、売店もいくつかあった。たしかわたしたちは何も頼まなかった。夕飯をどこかで食べて、満腹の状態だったのだと思う。その日、夜景よりもわたしの目を引いたのは、窓際にカフェバーの椅子を動かしているカップルだった。ふたり並んでワインを飲みながら、静かにおしゃべりをし、時々耳打ちをしたりして、仲良く夜景を眺めている。その光景があまりにもロマンティックで忘れられない。ふたりの風貌も髪の色も覚えていないのに、記憶の中に不思議な輪郭を保って今もなお焼きついている。その代わり、夜景は全然記憶にない。
懐かしい旅を思い出していたら洗濯機の音が聞こえなくなった。干して、そろそろ眠ることにする。